com-yoshiのブログ

現役の天理教教会長による、ぶっ飛びな天理教のお話や、だらけきった信仰体験談を通して、アナタのココロの筋力アップをサポートします。

瀬戸内寂聴の寂庵のあり方こそ、これからの天理教の教会の見本になるかもしれないと思った話

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どうも、コムヨシです。

 

昨日何気なくテレビを見ていたら「深いい話」で瀬戸内寂聴さんが出演されていました。

ボクの中での瀬戸内寂聴さんのイメージは

  • 90過ぎてもやたら元気
  • 講演会はとにかく人気
  • 作家?
  • 人間の寿命は120歳って言ってたらしい
  • 若い女の子が寂庵で働いている

 

といったところです。

「すごい人」っていうイメージはあったけど、あまり共感は持てなかったので、特に調べようともしてきませんでした。

 

でも、昨日の番組をみてとても衝撃的だったことがあったので、そのことを今回はお伝えしようと思います。

 

 

小説家に専念するために出家した

らしいです。

Wikipediaで調べてみたんですが、出家の理由は記されていませんでした。

検索をかけてみましたが、基本的に出家の理由は謎とされているみたいでした。

なぜ昨日の番組で「小説家に専念するために出家した」と言い切れたのかは不明ですが、ボクはその理由が一番しっくりきます。

 

出家すると聞くと、世俗から離れ自分自身と向き合うみたいなイメージがあります。殆どの方はそうなのかもしれません。

でも寂聴さんは、自分が自分のやりたいことをやり切るための最良のスタイルを選択したということなのではないでしょうか。

実は、出家する以前は僧侶になるために修道院に行かれたそうなんです。でも、子供を残して不倫したという経歴が理由で修道院から拒否されていたらしいんです。

その後お寺にお願いにいくのですが、ことごとく断られたそうです。

 

ボクの勝手な想像ですが、最初に修道院に行っていたということを考えると、別に出家ということにこだわりがあったわけではないように思います。

お酒を飲んだり、肉を食いまくってることを考えても、仏の道に生きるために出家していないということが窺い知れます。

 

寂庵の会計は常に赤字

一番衝撃的だったのは、寂庵(寂聴さんが代表の寺院)の会計が赤字だということです。

とても不思議でした。

寂聴さんはとても豪華な暮らしをしています。

たくさん稼いでいるからこそ、そんな暮らしができるわけですが、つまりはメインの収入はお寺の収入ではないということなんですね。

 

寂聴さんは小説家です。

寂聴さん的には、本業は小説家であり、生き方のベースが仏の道といったところでしょうか。

 

寂聴さんのWikipediaページでは

金を取る宗教は偽物」を自らの持論としている。

と、記されています。

 

寂庵は、会費とかお供えはまったくないのだそうです。(この辺の詳しい表現はちょっと忘れたのでニュアンスがちょっと違うかもしれません)

月に一回開催される法話の会では1人1000円の参加料を徴収するようですが、激安ですし、定員が150名なので、その収入だけではあのような豪華な暮らしは出来ないこがわかります。

 

ボクは、そのスタイルがとても心地よく感じました。

お金をとらないというのが素晴らしいのではなく、寂聴さんは寺院を経営するのが目的ではなく、自分が自分らしく楽しく生きることを一番大切にされているように思えたんです。

 

寂聴さんからしたら、好きな時に好きなように小説が書ければいい。好きな時に好きな物を好きなだけ食べれればいい。

 

一見自分勝手な生き方に見えるかもしれませんが、人に尽くし人の役に立とうという精神がなければ、どんなジャンルに生きても成功することはできないでしょう。

 

寂聴さんが、自分らしいスタイルを手に入れているということは、自分勝手な生き方ではなく、自分らしく人の役にたつ生き方を貫いていることの証ではないかと思うんです。

 

 

教会というカタチにがんじがらめにされてしまっている天理教に未来はあるのか

別席者や修養科生を誕生させることが尊いことに変わりはないのだけど、それが目的になってしまっているのは否定できない事実です。

 

そこが目的になってしまうから、「布教!布教!」ってなってしまう。

天理教の目的は布教ではなく、陽気ぐらしです。

 

まずは自分がしっかりと陽気ぐらしをすることが何よりも優先すべきことでしょう。その陽気ぐらしという生き方があまりにもボヤケているから、みんなとっつきにくいんだろうと思います。

 

だから、「とりあえず布教しよう!」っていうことになってしまう。

 

ボクは、今回瀬戸内寂聴さんの生き方や、寺院の経営方針に少し触れただけですが、教会のあるべき姿がぼんやりとイメージできた気がします。

 

天理教を仕事にするんじゃなくて、自分の好きなことを仕事にして、生き方のベースが天理の教えですっていうのが理想だと思います。

 

 

一般的な信者さんだったら、そういう人って結構いるんじゃないかなって思うんです。

でも、それをやってる教会長って圧倒的に少ないと思うんです。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f4-6d/kou1000hou/folder/882528/21/6507621/img_0

 

出来ないんじゃなくて、やりずらい雰囲気があるっていうのが本音でしょう。

 

教会長が二足のわらじはいかがなものか

 

という雰囲気です。

 

働いている教会長さんはたくさんいます。

でもそれは、自分らしく好きなことをして生きるっていうことではなくて、働かないと教会を維持できないからなんです。

 

たしかに教会ってお金がかかります。

 

維持管理費だけなら、そこまでお金はいらないと思います。

結局、「お供え」なんですね。

 

強制ではない、「強制的なお供え」が必要になります。一般的な言い方では上納金っていうんでしょうか。

 

お供えが悪って言うんじゃないんです。お金は心を表すのに一番てっとり早い方法だからカタチとしては問題ない。

 

ボクが教会側として一番しんどいなって思うのは、二足のわらじをはかない以上は、信者さんからのお供えで生活しなければならないこと。

多いから助かるとか、少ないから大変とかっていう次元の話ではなく、シンプルに「重い」んです。

大切なお供え、貴重なお供えで生活させてもらっている以上は、信者さんが納得するような使い方を心がけなければなりません。頂く者として当然です。

 

でも、例えばですけど、いい車に乗りたいし、好きな服を買ってオシャレしたり、家族でちょっと豪華な外食をしたり、旅行に出かけたり。。。

「好きな時に好きなこと」っていうのが、しずらい。

 

 

でも、寂聴さんみたいな経営方針だったり稼ぎ方なら、ボクはもっと教会長もその家族も自由にのびのびと楽しく信仰を続けられるんじゃないかなって思ったんです。

これからの教会長のあるべき姿を、瀬戸内寂聴さんの生き方を通して見いだせた気がします。

 

もちろん、布教が大好きで、それによって人間関係を築いて行ける人は全然そのスタイルでいいと思います。そういう教会も大事。

 

でも、ボクは出来ないし、出来ない人のほうが圧倒的に多いから、行き詰まってる教会が急増しているんだと思います。

色んなスタイルをもった教会がたくさん出来れば、これから天理教と接点を持つ人達にとっても選択肢が広がるし、紹介もしやすい。

天理教は万能であることが求められるキライがあるけど、やってるのが人間である以上はどうしたって得意不得意や、好き嫌いがでるもの。それでいいじゃないですか。

 

 

教会長こそ、好きなことして人の役にたちましょう

好きなこと、得意なことが誰かの役にたつってとても素敵なことです。

そこから自然に人間関係が築かれますし、天理教がベースにあれば自ずと、おぢばへお誘いすることも自然な流れでできるでしょう。

躍起になって布教に出なくても、アナタがアナタらしく生きるだけで誰かが助かり、おぢばへと導かれるのではないでしょうか。

そんな生き方の先に天理教の教会は存在意義を自ずと発揮してくれると信じてやみません。

 

今日も一日陽気ぐらし!

 

 

 

 

ミニマリズムという生き方が新しい感謝の仕方を教えてくれた

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どうも、コムヨシイズムです。

 

ミニマリズムって聞いたことありますか?

聞いたことある方もない方も、ミニマリズムを毎日実践している「ミニマリスト」という人の考えに触れてみていただきたいです。

こちらからどうぞ↓↓

sibu2.com

ボクはこの動画を見て、一発でミニマリストのファンになってしまいました。

ミニマリストのしぶさんのブログもミニマリストである理由や、ミニマリストの普段の持ち物、部屋の紹介など、色々興味深い記事がならんでいます。是非読んでみて下さい。

 

たくさんある記事の中で、とても印象的だったのが

 

物が少なくなるほど、1つ1つのありがたみが嫌でも分かるし、物に感謝できるようになった。

多すぎる物は重りになってしまうけど、少なからず物がないと生活できないのも事実。

だから物は大好きだし、これからも自分を支えてくれる物だけを選んで所有しよう。

 

引用元:物を減らすと、1つ1つのありがたみが嫌でも分かる | ミニマリストしぶのブログ

 

という内容です。

 

ボクはTシャツが好きなんですが、その中でもバンドTシャツが大好きです。(最近はあまり持ってないんですが汗)

自分がTシャツ何枚もってるかなんて全くわからない。

いつの間にかなくなっていても、なくなっていたことにすら気づけていなかったんです。

 

不必要なものをなくすっていう考え方なのかなって思っていましたが、そうではなく、

「本当に必要な物だけを残す」っていう発想みたいなんです。

 

消去法みたいな感じですかね。

 

減らすんじゃなくて、残す。

 

作業同じかもしれないけど、プロセスがまったく違いますよね。

 

とても前向きな考え方に共感を持てます。

 

本当に必要なものだけに囲まれて過ごす生活なら、一つ一つの「モノ」に感謝の思いがわくのはとても自然な流れなんだろうなって感じました。

 

天理教は「感謝」が代名詞みたいなとこがありますが、彼ほど毎日「モノ」に対して感謝している人はいるのだろうかって思っちゃいますよね。

当然ボクも出来てない訳ですが。

 

今日一日の自分を支えてくれた、たくさんの人。

そして、たくさんの「モノ」。

 

明日も変わらずボクを支えてもらいたいから、感謝の思いをもって大切にしていきたいなって思いました。

 

妻や夫を断捨離しないよう、断捨離されないような人間になりましょう(猛爆)

 

 

今日も一日陽気ぐらし!

 

第11話「酒と泪と布教と布教」〝思ってたんとちゃう〟教会長の日々

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どうも、ブログを始めてからというものめっきり布教らしい布教をしていない、コムヨシです。

 

布教してますか?

にをいがけしてますか?

 

って聞かれると、なんだか心のずっと奥の方がズキズキします。

そんな経験ないですか?

 

ボクは、ズキズキするのがイヤだったから、ズキズキしない天理教信者になりたかったから、なんとか布教ができる人になろうと必死になっていたのかもしれません。

 

会長就任当初はどんな布教活動をしていた?

当時のボクの布教経験と言えば、青年会で月に一度行っていた神名流し程度のものでした。

神名流しも多勢だから出来ていた部分がかなりあって、1人でやるのはとても勇気が要るレベルでした。

立場は人を変えるといいますが、ボクもご多分にもれず多少なり変化することができました。変化せざるを得なかったというのが本音でしょうか。

 

「会長が1人で神名流しくらいできないでどうする」

 

そんな思いを自分自身に突きつけ、追い込んでいたのでしょう。

よく言えば「追い込み」ですが、悪く言えば「先入観」というやつです。

 

これはボクの悪いクセでもあるんですが、とかく先入観をもちやすい性格なんですね。

 

「◯◯は◯◯あるべきだ」

 

自分で勝手に理想をイメージして、そこに近づけようとするのは良い事だと思うんですが、その理想に近づけなかったり、理想とは違う感じになってると、それがいけないことのように感じてしまうんです。

 

「こういうのもアリだな」

 

って言う風になかなか思えない自分がいます。

 

なので、当時はとにかく理想の布教師になろうなろうと必死にもがいていました。

 

でも、なれないわけです。

 

なれないというか、布教にすら出られなかったんです。

 

当時のボクの中での「布教」は、戸別訪問が最も素晴らしいものだという考えがありました。

とにかく毎日毎日、一軒一軒歩く。

これが最高の布教だ。

と思い込んでいました。もちろんその考えが間違いだとは思いません。

 

ただ、あまりにもその「スタイル」に固執してしまった挙げ句、理想と現実の狭間で勝手にもがき苦しむ事になりました。

所謂「負のスパイラル」というものに陥りました。

 

・会長は、布教師はこうあるべきだ

      ↓

・断られるのが恐くて布教に出られない

      ↓

・布教にすら出られない会長はサイテーだ

      ↓

・オレはサイテーだ

 

この負のスパイラルからは中々抜け出せませんでした。

ブログというアウトプットと出会っていなければ、未だにそのスパイラルをさまよっていたのかもしれません。

 

 

布教ができないコムヨシの一日を大公開

ボクは朝が尋常じゃないくらい苦手です。

もうその時点で、自分を許せないんですね。

 

・会長は誰よりも早く起きて朝勤めの準備を整えるものだ

       ↓

・ほとんど朝は起きれない

       ↓

・早起きできない会長なんてサイテーだ

       ↓

・オレはサイテーだ

 

別の負のスパイラルが出現しました。

 

起きようと思っていた時間に起きれなくても、目覚めたらすぐ体を起こせばいいのに、ボクはそんな自分がイヤになって起きるのがイヤになっちゃうんです。ウジウジしちゃうんです。

 

それで結局、昼前とか昼過ぎとかにようやく起きるわけです。

 

テキトーに食べる物を用意して、テレビを見ながら飯を食います。

テレビを見始めると、そっから抜け出せなくなって、気づいたら夕方になってます。

 

夕勤めを済ませ、晩酌です。

 

テレビはチャンネルが2つしかないので、ほとんど見ません。

親戚から借りていた「男はつらいよ」のシリーズを毎日1話ずつ見るわけです。

 

明日早いからさっさと寝ようって思うんですが、昼まで寝てたから全然眠くならないわけです。結局寝るのが遅くなります。次の日もやはり起きれません。

 

もちろん毎日こんな生活をしていたわけではないですが、ほとんどこうだったって言っても過言ではないです。

 

日中特に用事がなかった日なんかはたいていこうだったんじゃないかな。

 

こんな生活を公開するのは本当は恥ずかしいからイヤなんだけど、もしもボクが当時こんなブログに出会っていたらもう少し楽になれてたのかなって思うんです。

 

もしも、いまこのブログを読んでくれてる人で、ボクと同じようになんらかの負のスパイラルに陥ってる人の励ましにでもなれば、ボクの腐った生活もまんざら無駄じゃなかったのかなって思うんです。

 

 毎日教会周辺を神名流ししよう

そんなボクでしたが、実は会長に就任する直前にこんなことがありました。

 

会長就任の儀式である「お運び」を迎えるにあたり、ボクはこの地に多少なりと種まきをしてからお運びに臨みたいと思っていました。

 

「頑張って1人で神名流ししよう!」

 

と思い、教会周辺を神名流しすることにしました。

 

神名流しっていうのは、拍子木をカンカン鳴らしながらおつとめの歌をうたって歩くやつです。

 

とりあえず3日間続ける事にしました。

 

距離はどれくらいかわかりませんが、5分くらいの歌を4回歌える距離です。

歩いて20分くらい。

 

3日目、尋常じゃない吹雪です。前が見えないくらいです。

心の弱いコムヨシは吹雪にひるみましたが、なんとか自分を奮い立たせ、いつもよりは多少ショートカットを使いながらもなんとかやり遂げました。

 

教会に戻ると、前奥さんが嬉しそうに飛び出してきました。

 

「さっき床屋さん(屋号)から連絡があって、奉告祭にやっぱり参加することにしたんだってよ! よかったねー!」

 

実はこのとき、奉告祭への声がけも同時進行で行っていて、前述の床屋さんは教会のかまどになる家で、教会としても最も頼りにしていた家の一つでした。

 

ボクが奉告祭のお願いに行くと

 

「主人も倒れたし、娘も修養科でイヤな思いして途中で帰ってきたし、会長の交代を機に天理教をやめようと思ってます」

 

っていうことを言われていました。

 

その床屋さんが、奉告祭に来てくれるというのです。

 

前奥さんは続けて

「若い会長さんが頑張ってる姿を見て自分もがんばろうと思ったらしいよ」

 

たった3日間の神名流しで何かが変わるなんて思いもしなかったけど、現実にこういうことが起こりました。

 

なので、ボクの中で神名流しはとても大切なスタイルの一つで、とりわけ教会周辺の神名流しは特別なものになっていきました。

 

その後も、朝勤め後に神名流しをする習慣を始めると、以前より起きやすくなった気がしました。

村の人からも喜んでもらったり、感謝の言葉をかけてもらったりすると、逆にさぼりづらくなったりもして、いい刺激をもらいました。

 

こんな感じで、アップダウンの激しい自分自身に苦しみながらも教会生活を続けて行くのでした。

 

 

つづく

 

人に喜びを与えるために立てたコムヨシの目標って?

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どうも、2018年バージョンのコムヨシです。

ブログのアイコンが変わったの気づきましたか?

実は最近、LINEスタンプ作りが姉弟の中でちょっとしたブームになっています。

ボクも前々から興味があったんですが、姉弟からの刺激を受けてなんとなく作ってみました。

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はまっちゃいました。

 

というわけで、せっかく作った画像なのでブログのアイコンに設定する事にしました。

スタンプは現在申請中ですが、おそらく認可されると思いますので、リリースされたら1人10セット以上買って下さい。

 

あ、そういえば

 

あけましておめでとうございます。

 

新しい年を迎える時って、たいていその年の目標とかたてると思いますけど、なんか目標とかって立てましたか?

 

目標をたてる意味

ボクは未だかつて目標を達成したことがないので、目標なんてたてるもんじゃないって思ってました。

でも、ブログを始めてからすごく世界が広がって、ブログをやってなかったら知る事がなかったであろう人達と(一方的に)繋がるようになりました。

その人達のブログやSNS、メルマガなんかを読むようになって強く感じた事があります。

それは、目標の設定はめちゃくちゃ大事だということです。

 

なぜ目標を達成できないのか

ボクが記憶している中で、「目標」という言葉を最初に聞いたのは小学時代の夏休みの宿題だったと思います。

  • 毎日本を読む
  • 毎日日記を書く
  • 毎日歯磨きをする
  • 毎日家の手伝いをする
  • 毎日勉強する

毎日何かを続けるというのは本当に苦痛でした。

本を読むのも好きじゃなかったし、なんで休みになると急に日記をつけなきゃいけないんだって思うし、歯磨きもあまり好きじゃなかったし、家の手伝いも面倒くさいし、勉強なんてもってのほか。

さらに面倒だったのが、毎日やったかどうかをチェックする表みたいなのがあること。

もちろん、最初はやる気満々なんです。

オレには出来る。

毎日ちょっとずつやればいいんだろ?

楽勝じゃないか。

気がつけば新学期を迎えていました。

 

目標というものとの出会い方がよくなかったんでしょう。

そこから目標と聞くとトラウマになっていたように思います。

しかも、これらの目標は自分で設定したものではなく、学校側から強制的に押し付けられた目標だったことも要因かもしれません。

 

ボクが目標を達成出来なかったのは、目標のもつ意味を正しく認識していなかったことが原因なのかもしれません。

 

上手く行かない理由、それを解決する道順こそが「目標」

例えばボクの今年の目標は、

 

「心を込める、丁寧にやる」(すっごくありきたりですいません)

 

ボクは基本的に、前もって予定を立てたり計画をすることが非常に苦手です。

それはある種、ボクが持っている障害の一つなのかもしれませんが、いずれにせよ脳の構造がそうなっている以上は、それを改善させるのは非常に困難なことだと思います。

今までの感覚であれば、予定を立てられない自分をどうやったら変えられるのか、そのためにどんな目標をたてたら良いのか、という発想になっていました。

確かにボクは予定を立てるのは苦手なんですが、別に予定をスマートに立てられる人間になりたい訳ではないんですね。

大事なのは、予定をたてたその先の話なんです。

つまり、ボクが最近大事にしている感覚である「人に喜びをあたえること」「人の役に立つこと」が達成されればそれでいい訳で、予定を立てられる人間になる必要は全くないんです。

 

例えば、すごく緻密な計画でサプライズを企画したりっていうのにすごく憧れます。でも全然できない。何をどう考えればいいのか分からない。

 

出来ない事を出来るようにすることも素敵なことなんだけど、その前にボクは、行き当たりばったりでも、ありきたりな企画であっても、とにかく目の前のことに全身全霊を込めて取り組める人間である方がもっと大事だし、それなら技術や知識じゃなく心の持ち方一つでなんとかなるって思えたんです。

それに気づかせてくれたお話を紹介します。

 

稿本天理教教祖伝逸話篇七 「真心の御供」

中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖(おやさま)にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖(おやさま)のお目にかけた。
すると。教祖(おやさま)は、いつになく
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖(おやさま)にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
例によって、こかんが教祖(おやさま)のお目にかけると、教祖(おやさま)は、
「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体であらせられた。
これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
教祖(おやさま)には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖(おやさま)に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖(おやさま)は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」
と仰せられた。

 

こかんは教祖の末娘のこと。

 

引用:天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇七 真心の御供

 

ボクはこれまで、このお話はお供えする時の心が大事なんだという風に捉えてきました。

つまり、神様に対する心のあり方が大切だという認識でした。もちろんそれも大切です。

でも、今になって考えてみると、神様自身は決して自分のために何かをしてほしいと思ってる訳ではないんです。

その人が、その瞬間、真心を発しているかどうか。

むしろ、それだけが楽しみなんですよね。

神様は人間の心にしか興味がない。

お金や物なんて要らない訳です。

 

自分自身に真心を供えて欲しい訳じゃなくて、世界中の人間が、今この瞬間に真心を発しているかということだけが知りたい。

 

たとえそれが、どんな過酷な環境であっても、どんなに辛い瞬間であろうとも、その人がその瞬間に持てる全ての真心を発しているか。それが知りたいんですね。

辛い環境を喜べなくてもいい、楽しめなくてもいいと思うんです。

ただ、真心を発することだけは心がけていきたいなって思います。

 

というわけで、今年はたくさんの人にたくさんの喜びを与えるために、心を込めて、丁寧に、真心を与えまくっていきたいと思います。

 

今年も一年陽気ぐらし!

第10話「教会はお化け屋敷!?」〝思ってたんとちゃう〟教会長の日々

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「情報公開はいいけど、情報出し過ぎじゃない?」

 

どうもコム次郎こと、コムヨシです。

 

先日、敬愛する先輩からそんなことを言われました。

 

さんのコムタンブログ見てるよ!」

 

そう、あのコムタン発言の先輩です。

 

「出し過ぎじゃない?」とか言うくせに、コム次郎シリーズは3話までしか読んでないそうです。

 

というわけで、これからは

 

じゃんじゃん小出しでいきます!

 

記念すべき10話スタート

 

 

 

いよいよ始まった教会一人暮らし

ボクはこれまで、親元を離れての生活は長かったんですが、一人暮らしというのは初めてでした。

 

一人暮らしデビューが天理教の教会だなんて、ものすごくヘビーですよね。スーパーウルトラヘビー級です。いや、ウルトラスーパーヘビー級とでもいいましょうか。

 

教会は築50年(当時)くらいの建物で、改築もほとんどなされておらず、色々な隙間や穴がたくさんありました。(今も)

また、周りが畑にかこまれているということもあってか、とにかくネズミが多かったんです。(今も)

そのため、前会長さんたちはあちこちにネズミ用の仕掛けを施していました。

主に、毒のエサと、よくわからないけど薬品を蒔いていたようです。

 

その薬品のにおいが強烈で、本来薄めて使用するものを原液のままそこらじゅうに蒔いていたらしいのです。

 

特に台所での臭いがハンパなく、台所でご飯を食べる気にはなりませんでした。

 

そんな感じで教会での一人暮らしが始まりました。

 

 

 

一人暮らしの夜って引くくらい寂しい

そんなに急ぐ必要もないのに、何かに急かされるように慌ただしく引っ越しの準備を進めました。

引っ越しと言っても自分の荷物は殆どないので、すぐ終わりました。

 

基本的に住居というものにあまり頓着なかったので、「あれが足りない」「これが足りない」と感じる事もなく、あるもので生活するという感じでした。

 

それでも困った事はありました。

 

それはテレビです。

 

テレビは割と大きめのブラウン管テレビがあったんですが、この辺の地域は電波が非常に悪く、普通に見れるチャンネル数がとにかく少ない。

 

地デジに移行した今は、ケーブルテレビになったので電波に関係なくキレイな映像をみることが出来るんですが、当時見れたチャンネル数は2つです。

 

2つです。

 

 

2つ。

 

 

そう、たったの2つ。

 

 

NHKと日テレ。(NHKは2つチャンネルがあるので、正確には3つですが)

 

 

当時ボクは「めざましてれび派」だったので、朝から羽鳥さんのズームインを見なければならないのは苦痛以外の何ものでもありませんでした。

 

いえ、羽鳥さんがキライなんじゃないんです。ズームインがおもしろくなかったんです。

 

まあ、それでも朝は良いですよ朝は。

 

夜ですよ夜。

 

一人暮らしで、チャンネル2つを想像してみて下さい。

 

しかも一つはNHKです。むしろこれはカウントされないでしょ。

 

実質1つなんです。

 

日テレ一強です。

 

なので、テレビはほとんど見ませんでした。このころのドラマとか流行ってた音楽とかも全然わかりません。

 

何を見ていたかというと、上級教会での青年勤め(雑用係)時代にレンタルしまくっていたDVDをひたすら見ていました。

 

 

 

友人が泊まりに来たぜ

そんな暮らしを続ける中、ある友人が泊まる事になりました。

 

教会での一人暮らしが退屈だったのもあるのですが、夜の教会で1人で寝るのがあまりにも恐かったというのもあり、来てもらうことにしたんです。

 

ボクは生まれも育ちも教会です。

 

だから慣れてるでしょって思われるかもしれませんが、夜の教会はやっぱり不気味で、1人で神殿のトイレに行くのはそれなりに勇気が要りました。

でも、実家は住まいと神殿が繋がっているとはいえ、生活スペースは住居でことたりたので、夜に神殿のトイレに行くことはありません。

 

しかし

 

ここの教会は、神殿を中心にして神殿の周りに部屋が足されている感じなので、どこへ行くにも神殿を通らねばなりません。

 

とにかく不気味なんです。

 

気持ち悪いんです。

 

トイレに行きたくないんです。

 

そんな感じだったんで、友人が来てくれたその晩は不気味さはかなり軽減され、楽しく夜を過ごす事ができました。

 

 

 

緑色のおじいちゃん

それから一週間ほどたった頃でしょうか。

 

泊まりに来てくれた友人とは別の友人と、何気ない会話をしていました。

その友人は、泊まりに来てくれた友人とも共通の友人で、彼らがボクの教会に泊まりに来たことも知っていました。

 

そんな話の流れで突然その友人が、こんなことを言ってきました。

 

 

「こないだ教会に幽霊がでたらしいね!」

 

 

「え?」

 

 

「え???」

 

 

「!!!!!!!!!」

 

 

おい、そんなの聞いてねーぞ!

 

 

どういうことだったかというと、その友人がトイレから部屋に戻る途中、神殿の隅に薄緑色の色をしたおじいさんが、イスに座るような格好をして座っていた。(そこにイスはなかったらしい)

神様の方に背を向ける格好で、外の方を向いていた。

 

 

ということがあったのだそうです。

 

でもその友人は、ボクが恐がりだということを承知してくれていたので、あえてボクには話さなかったのだそうです。

 

共通の友人には話したけど、本人には話さないようにということを伝え忘れていたようです。

 

その話を聞いて、実は思い当たる節がありました。

 

当時ボクは、ある信者さんのおたすけに通っていて、3日間病院へお見舞いに行くことに決めていました。

友人が泊まりに来た日は、2日目のお見舞いの日でした。

 

3日目の午前中は、部屋でちょっとした事務作業をしていたんですが、なんとなくソワソワするというか、イヤな感じがするというか、教会にいたくない感じになったので、ちょっと早いけど病院に行く事にしたんです。

 

病院に行ってみると、部屋に信者さんの名前がない。信者さんもいない。

 

大部屋だったので、容態が悪くなって移動したのかなと思い、看護師さんに尋ねてみました。

 

すると看護師さんは

 

「今朝、亡くなりましたよ」

 

とのことでした。

 

 

ボクは、その信者さんとは全く面識がなく、入院の連絡をもらった時にはすでに意識がない状態でした。

 

ボクには霊感がまったくないので、そういう話はまったくわからないんですが、

 

あの日の夜、友人がみたおじいさんは、恐らくこの信者さんだったんだろうなと思うんです。というか、そうであって欲しいと思いました。

 

教会にはまったく来ていなかったみたいだけど、修養科を出て、用木にもなっていたと聞きました。

 

「酒癖が悪くて大変だった」とその方の奥さんが事あるたびに言ってたけど、最後の最後に教会に来てくれたんだなって思ったら、とても嬉しかった。

 

あの夜、友人が泊まりに来ていなかったら、共通の友人がうっかりお化けの話をボクにしてくれていなかったら、ボクはその信者さんが亡くなる直前に教会に来てくれていたことを知れなかった。

 

この世に偶然なんてないっていうけど、いまこの記事を書きながら改めてそれを感じています。

 

ちなみに、ボクの母親は引くくらい霊感が強くて、何度か手伝いとかで教会に来てくれているんですが

 

「相当気合いを入れてからじゃないと、あそこの教会には行けない」

 

というほど、邪気がハンパないそうです。

 

なんというか、無念の感じがハンパないんだそう。

 

それを聞いてから、色々調べてみたら、どうやら故人の年祭がほとんど滞っていたようなんです。

 

それで、前会長さんの一年祭(このシリーズ中ではまだ死んでません)に合わせて、滞っているであろう方々の年祭を一緒に勤めたんです。

 

それからというもの、以前のような邪気はほとんどなくなったらしいです。

 

霊感がないボクにはまったくわからない世界ですが、年祭とか霊祭って大事だと思います。教理的にどうなのかってとこはあると思うけど、大事っす。

 

でも、もしも霊感があったら住めなかったんだろうな。色々ちょうどよくできてるって感じですね。

 

 

 

つづく

天理教の修養科ってどんなところなの?

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どうも、コムヨシです。

 

早いもので、このブログも開設して6ヶ月目に入りました。

アクセスの平均値もちょっとずつ増えて、色々な方に読んでもらっているみたいなんです。とても嬉しいですよね。

 

今まで全くと言っていいほどコメントがなかったんですが、いわゆる「アンチ」と呼ばれる方々からもコメントをいただくようになりました。

アンチコメントはやっぱりへこみますが、それでも、こんなウンコみたいなブログを読んでもらって、しかもコメントまでいただけるなんて、とても有り難いことですよね。

 

そんなアンチコメントが増える中、あるコメントが目に止まりました。

以下に抜粋して引用します。

 

 多くの分教会の会長さんとか、 そういった関係者の方のブログって 書いてる方が、 ご年配の会長さんとかで、文体も けっこう堅苦しいのが多い中、 小向さまのブログは 若い人調の話し言葉でとっても読みやすく みるみるうちに引き込まれました。

教会長という責任あるポストにあるにも関わらず 歯に衣着せぬホンネを ブログで公開していただいているので、 うれしく、といいますか共感しております。 一気に全記事の8割くらいを 読ませて頂きました。

教会Deハロウィンとか、 教会deカフェっていう 企画はおもしろいですね。

で、リクエストでございますが、 もしよろしければ、小向さまが 「修養科」に行かれたときの体験談とか 修養科に行かれる前と行った後で、 このような内面の違いがあった、とか 小向さまから見た修養科のいい面、あまりよろしくないと思われる面など、が ありましたら、記事にして頂ければうれしいです。

母が修養科に入っております。 毎日21時半の夕礼後に母と電話で話をしていますが、 だんだん私も修養科に興味がでてきて 入学を積極的に検討するようになりました。

 

天理教を調べているうちにボクのブログにたどり着いたのもビックリでしたが、「修養科について記事を書いてもらいたい」というリクエストがきたことにはもっと驚きました。

 

というわけで、依頼主のご期待に添える自信は全くないのですが、天理教の修養科について思いつく限りのことを書いてみようと思います。

 

 

 

3ヶ月で陽気ぐらしの生き方を身につけることが可能なのか

結論からいうと

どちらとも言えません。

 

はい無責任ですいません。

でもそれはどうしようもない真理なんですね。

全く同じ環境で同じ体験をしても、感じ方に個人差があるのは当然の事です。

 

じゃあコムヨシはどうだったのか。

何も変わりませんでした。

 

なぜ変わらなかったのか、クソ人間のコムヨシを変えられなかった修養科ってどんなところなのかまとめてみましょう。

 

 

 

修養科で学ぶこと

 

 修養科の一日はおよそ次のような流れです。

 

  • 起床、洗面、食堂準備(食堂準備がない詰所もある)
  • 朝の神殿掃除(朝勤め一時間前に行われ、季節によって時間が違う)
  • 朝勤め参拝(各大教会でまとまって参拝)
  • 詰所で朝食、登校準備
  • 登校
  • 朝礼(全体)
  • 朝礼(クラスごと)
  • 天理教教典・教祖伝・みかぐらうたの授業(午前中は4コマくらい?)
  • 昼食、休憩
  • おてふり(ダンス)、鳴りもの(楽器)の練習、ひのきしん(午後は2コマ?)
  • 各部署でのひのきしん
  • 夕方の神殿掃除
  • 夕勤め参拝(詰所で修練として勤める場合がほとんど?)
  • 修練(ダンスや楽器の練習)
  • 夕礼
  • 入浴
  • 消灯

 

という感じです。

勉強の側面からみると、午前中は机に座って講義を受け、午後は実践形式の内容でまとめられているという感じです。

 

 

 

修養科の雰囲気

めちゃくちゃ良いです。

おぢば(主に教会本部周辺)は「時間が止まっているような」と形容されますが、本当に時間がゆっくり流れているような印象を受けます。

 

ボクのように青森のど田舎出身の人間が行っても、そう感じるわけですから、都会の人からしたら本当に止まっているように感じるのかもしれません。

 

天理教のことはよくわからないけど、天理の雰囲気は好き!

天理教は大嫌いだけど、おぢばの雰囲気は好き!

教会長なんていなくなればいいと思ってるけど、おぢばは大好き!!

 

信仰のある無しに関わらず、おぢば帰りしたことのある人の多くは、このように感じている方の割合が多いような気がします。

 

それくらい独特な雰囲気と時間の流れをもっている空間だと言えます。

 

そこで3ヶ月過ごすわけです。

 

修養科は男女別のクラス編制だとは言え、老いも若きも、教会で育った者も初めて天理に来たという人も関係なく、机を並べて教理勉強に励みます。

 

60代、70代はざらで、80代で入学される方も珍しくありません。

 

車イスがなければ生活出来ない方、酸素ボンベがなければ息が出来ない方、やくざから逃げ隠れるつもりで来た方、

 

色んな境遇の人達が一つの部屋で、生きることの意味や、これからの生き方を模索していきます。

 

3ヶ月目には一通り試験があるわけですが、お年寄りの方のほとんどは全くと言っていいほど回答できません。

お年寄りだけでなく、若い方でも結局よくわからなかったという人の方がほとんどでしょう。

 

それでもほとんどの方が、修了式には涙を流し、別れを惜しみます。

 

それは、天理教の教理に感動し新しい生き方を手に入れたわけでもなければ、布教意欲に燃え今後の布教人生に武者震いするようなものでもありません。

 

単に、修養科の雰囲気、そしておぢばでのゆるやかな非現実的な時空との別れ、それを共有した仲間との別れに涙しているのでしょう。

 

それほど修養科は特別なところなのです。

 

 

 

え?それで?コムヨシはどうだったのよ?

え? ぼ、ぼ、ボクですか??

 

ボクは、一切泣きませんでしたし、早く修養科終わりたいと思ってましたよ。

 

もちろん、修養科の特別な雰囲気に癒されたのは間違いありません。

でも、教会で生まれ育ち、天理教の枠内でばかり生きて来たボクにとって、修養科には新しい感覚はなかったし、

 

「そんなの知ってるよ」

 

っていう感覚がどうしても抜けないんですね。高慢の極みです。

 

記憶として残っているのは、やっぱり仲間と過ごした休み時間だったり、ご飯の時間だったりします。

 

勉強の内容は基本的なことをサラッと学ぶという程度です。

でもそれでいいんですね。

 

多くの教会長さんがそう思っているように、修養科に送り出して天理教大好き人間に変貌してくるとはこれっぽっちも思ってなくて、修養科のあの特別な雰囲気の中で、少しだけ自分を見つめ直す時間をもてればいいかな、くらいの感覚です。多分。

 

逆にいうと、修養科で人に与えられるのはそのくらいのもんだと思ってます。

 

 

 

修養科に行くべきか、やめるべきか

行くべきです。

 

絶対に行くべきです。

 

なぜなら、あの特別な雰囲気は世界中どこを探しても恐らく存在しません。

世界中を回った事がないのでわかりませんが(猛爆)

 

もし世界のどこかにあったとしても、そこへ行く旅費や日程なんかを差し引いても、日本人なら圧倒的にお得です。

 

おぢばは、人類のふるさとと言われます。

おぢばでの出会いが一期一会だったとしても、一期一会で終わらない可能性があります。

 

実はボク、天理で修養科を受ける前に「ブラジル修養会」というものを受けていました。

これは本部公認のブラジル版修養科です。修養期間は一ヶ月しかありませんが、本部の修養科と同じ扱いになります。反則技ですが、ブラジルからの渡航費なんかを考えると仕方ないのかもしれません。

 

そんなことを言いたいのではなく、そのブラジル修養会のクラスメートと、天理でばったり再会したんです。

 

もう二度と会う事はないと思っていた方だったので、再会をとても喜びました。

 

ボクはコロンビアに二年間いたわけですが、天理教に関係のあるコロンビア人とは再会する可能性がとても高いですが、関係のないコロンビア人とは再会する可能性はほぼゼロでしょう。

 

上手く言えないんですが、人間のふるさとという認識があり、そこに帰ろうという気持ちが働いているうちは、再会する可能性はとても高いんですね。

 

まして、修養科は魂レベルでの繋がりや関係が強いとされている人達が寄せ集まっているので、再会する可能性は更に高まります。

 

本当に上手く言葉に出来ないんですが、ボクはそういう感覚がとても好きです。

 

まあ、それが修養科にいく理由としては非常に弱いですが。

 

 

 

3ヶ月なんて時間とれるわけねーべ

そんな方のために、3日講習会というものがあります。

 

全部で三回にわかれていて、3日間ワンセット✖️三回の計9日間。

 

これは教理修得に的を絞ったもので、3ヶ月分の内容を9日間に凝縮しているので、講師のラインナップもプログラムも綿密に設定されています。

とても濃い内容になっているようです。

 

しかも、修養科終了と同じ資格を得られます。

現代社会のニーズに合わせたものですね。

 

 

 

おまけ

ググってもらうとこんなサイトもありますのでよかったらご覧下さい。

 

修養科|天理教

 

そしてその中に、こんな動画もあったので貼っておきますね。

 

youtu.be

ちなみにですが、今年の4月から修養科の体制がちょっと変わったみたいなんです。

大きく変わったと思われるポイントは、数人のグループに分かれて意見交換やシェアリングをする時間ができたことじゃないでしょうか。

講義に対して感じたこととか思ったことをアウトプットできるというのは、とても良いことじゃないかと思いますね。

 

今回はこれまで!

 

今日も一日陽気ぐらし!

【教会 DE クリスマス】開催決定!!今回の目玉はスナック「コムヨシいずむ」 

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どうも、クリスマスパーティーとかやったことないコムヨシです。

 

アナタはクリスマスに何かしていますか?

クリスマスって、キリストの生誕をお祝いする日だそうですが、キリスト教じゃない人達にもお祝いしてもらえるキリストって素敵すぎますよね。

 

クリスマスって子どもたちも大好きです。

なんかよくわかんないけど、クリスマスツリーってキレイだよね、とか。

クリスマスケーキって美味しいよね、とか。(クリスマスケーキってなんやねん)

 

ボクも小さい頃はクリスマスに憧れていました。

 

「クリスマスツリー飾ろうよ!」

「クリスマスケーキ食べようよ!」(クリスマスケーキってなんやねん)

クリスマスパーティーしようよ!」

 

それに対するボクの両親からの答えは

 

「ウチは天理教だから」

「ウチには煙突がないから、サンタさんが来れない」

 

1人の子どもの夢が崩れ落ちた瞬間でした。

 

それ以来ボクの心は荒れに荒れ、酒浸りになり、タバコにも手を染めました。

学校では暴行を繰り返し(ウソです)

 

 

というわけで【教会 DE クリスマス】開催します!!

 

 

 

今回の目玉はスナック「コムヨシいずむ」

【教会 DE ◯◯】シリーズは基本的に、子どもたちに楽しんでもらうためのスペースとして教会を提供したいということがコンセプトになっています。

 

でもそれだけじゃもったいない。大人だって楽しみたいんです。

 

じゃあ大人も楽しめるカタチにしようよ。

 

ということで、子どもたちは思い思いに楽しみつつ、大人はゆっくり美味しいお酒を飲みながら、下らない話で盛り上がる。

 

たわいない話題から、真剣な悩みを打ち明ける場であってもいい。好きなことを好きなだけ話せる、そんな雰囲気を提供していけたらいいなと思っています。

 

前回のハロウィンも大好評だったわけですが、

 

今回はさらに趣向をこらす予定です。

 

例えば、

 

前回は、神殿隣の小部屋にテーブルを配置したわけですが、やっぱり狭かった。

ある程度想定はしていたんだけど、やっぱり狭かった。

 

本当はもう少し広い部屋があればいいんだけど、どの部屋も帯に長し、たすきに短し的な部屋ばかり。神殿なんてもってのほかっていう感じでした。

 

でも今回は神殿でやります。

 

ここ数年、大教会の青年会総会前夜祭でやっている「立ち飲みBAR」や、妻の助言からヒントをいただいて、神殿の一角にスナックを設置することにしました。

 

実は今回、昼スタートにしようと思っていて、その辺りも不安はあるんですが、とりあえずやってみようと思います。

 

 

 

気になる内容は?

基本的にハロウィンと同じです。

ハロウィンの詳細はこちらから↓↓

見えた!新しい景色「教会 DE ハロウィン」レポート - com-yoshiのブログ

 

食べ物はビュッフェ的な感じに一カ所にまとめて、それぞれで自由に食べたいものを取り分けてもらいます。

神殿の真ん中辺りにテーブルを配置するので、基本的にはそこで食べてもらう。

 

スナックは、簡単な間仕切りを施して特別な空間を演出。

昼間の明るい雰囲気でもカラオケを歌いやすい空間を目指します。

 

どうも空間の魔術師、コムヨシです。

 

 

 

詳細情報

【日時】

12月23日(土)

12:00頃を目安にスタート

 

【場所】

天理教百石分教会

 

【内容】

スナック コムヨシいずむ

クリスマスプレゼント

カラオケ

など

 

【参加費】

大人 2000円(高校生以上)

子供  500円(中学生以下)

幼児    0円

 

どなたでもお越しいただけますので、興味のある方はご連絡ください!

みなさんのご来場を心よりお待ちしております!