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現役の天理教教会長による、ぶっ飛びな天理教のお話や、だらけきった信仰体験談を通して、アナタのココロの筋力アップをサポートします。

天理青年必読「疾風怒濤の時代(終)」 木村牧生(西村輝夫)著

どうも、疾風怒濤のコムヨシです。

 

全四回にわたって連載してきた「疾風怒濤の時代」も今回がラストです。

その前に前回までをおさらいしたい方、まだ最初から読んでない方は

こちらから↓↓

 

天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

天理青年必読「疾風怒濤の時代(3)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

 

では、最終回レッツゴー。

 

 

 

十四、信仰と教会制度

 天理教の発展はある一面、教会数の発展でもあった。明治二十一年十二月の郡山分教会を最初として、大正九年末には四千九百二十五カ所まで発展した。しかし、ここまで発展する一方、教勢の停滞や限界というものも意識され始めた。

 明治四十一年、天理教は念願の一派独立を果たし、教祖三十年祭には本部の神殿もできた。外面から見ると、これは天理教の大発展であり、前途はまさに洋々として開けてくるはずであった。それが反対の現象を呈したというのは、何か天理教内部にその原因がなければならない。その原因の一つとして考えられるのは、教会制度が一つの行き詰まりに達したということであろう。

 大体教会制度の始まりは、教会制度をとらなければ信仰を続けてゆけないという国の律から起きてきたものであって、元は、信仰があって教会があり、信仰が主で教会は従であった。言葉を換えて言えば、教会というのは、信仰の自由、祭典の自由、布教の自由を獲得するための道具であった。だから初めの頃は、人々は教会に重きを置くことなく、ひたすらおたすけに没頭した。そこに不思議なたすけが続出したのである。ところが、教会制度ががっちりしてくると、不思議なたすけが昔ほど上がらなくなったという声が聞こえ始めた。これは年限が経つとともに、かつては道具であった教会のために人間が心を労するようになり、教会のために神一条に道が説かれるという逆の現象が随所に起きてきたためだということもできる。

 もっとも別の観点に立ってみると、これは当然出てくる問題であって、教会制度ができ、建物も完備されてくると、信仰の形態と内容が変質することは避けられないことである。

 天理教の人は信仰の始め、たすけられた喜びに燃え、いんねんを自覚し、一切の所有を納消して、神の道に自分とその家族をささげた。その結果生まれたのが有形の教会である。しかし教会ができると、そこに「わが教会」という観念が生じてきた。同時に、教会の維持・経営という問題も起こってきた。教会を発展させることが、すなわち神の道の発展であるという考えも出てきた。一度は捨てたと思った「わがもの」という考えが再び頭をもたげ、かつては潔く納消してそれでよしと思っていた物質生活、経済生活という問題が、形を変えて重くのしかかってきた。これは大局的に言うと、やはり天理教人にとっての通らねばならない第二のいんねんの姿であろう。これが三十年祭に至って、天理教全般の中に生じてきた事情である。それは当然のことながら、教会の行き詰まり、教勢の停滞、困窮、そして自分の教会を中心とした見方・考え方の横行という形になって現れてきた。

 もちろん、布教意欲に燃えた前向きな教会では、そうした人間思案の入り込むすき間がなかったが、多くの教会は負債のために沈滞し、教会をどう維持するのかという問題にエネルギーの相当な部分を割いて頭を悩ましていた。またこの頃は、天理教全体としての統一的な理想・目標というものを失いかけていた。若い人の中には、人間くさくなった教会の現状に飽き足らぬものを感じ、批判という形で理想を求める者もいた。

 こうして天理教の大勢は、行き詰まりの観を呈していた。しかし、天理教に行き詰まりはあったとしても、神の道に行き詰まりはない。神の道を行く天理教がもし行き詰まったとするならば、それは神の道を行く者の人間思案を原因とするものである。しかし、人間思案は捨てなければならないと言ってみたところで、それは容易に捨てられるものではない。何か人間以上の力が働いてこなければ、大勢というものは一新できない。人間以上の力が働くためには、人間がそれに値するだけの心を尽くさなければならない。そしてそれは、まずぢばに現れてきた。新しい力がぢばに生まれてきたのである。

 

 

 

十五、ぢば中心主義

 教祖御在世当時は、教祖という絶対的なよりどころがあった。明治二十年以後はおさしづが下りた。おさしづが下りなくなってからの教祖三十年祭は、おさしづに基づく神殿普請という目標があった。三十年祭が終わると、天理教は一時的にそれに代わるべき全体的なよりどころを見失った。そこで、教会中心の思想やさまざまな人間思案がでたとしても、それは決して怪しむに足るものではなかった。しかし、そうした混乱の時期を経て自覚されてきたのが、信仰面からするぢば中心主義であった。

 ぢば中心主義に一応対比されるものとして考えられるのは、教会中心主義とでも名付くべくものである。神殿普請の際に、「何が無うなっても構わん。大きな心に成ってくれ。」(明治38年12月4日)という心で進んできた人たちは、三十年祭後自分の教会を整備する必要に迫られ、そこで芽生えてきたのが教会中心の思想である。これは、どうしても人間中心の信仰形態となることは避けられないのである。

 こうした思想がある一方、当時のぢばは、信仰の中心という性格はもちろんあったが、どちらかというと教会の本部であって、事務を取り扱う所という性格もかなり濃厚にあった。また本部において、信者に直接教理を説くこともあまりなかった。天理教校は、増野氏が校長になって一新するまでは、教師の資格を取るための施設という性格が主で、本当の信仰をここで培うという気風はそう強くなかった。

 こうした中において、ぢばはそうした事務の取り扱いではなく、もっと真実の意味におけるぢば、すなわち、たすけ一条のやしきとならねばならないと強く感じたのは、本部員松村吉太郎氏であった。松村氏は、三十年祭の時は収監されていて、暗く寒い獄中で、一人しみじみと教祖のひながたを身に味わいつつ遥拝した。それだけに、来るべき四十年祭対して心に期するものは深くそして強かった。氏のこの貴重な体験は、その心に真実の信仰心を燃え上がらせた。あるいは、神に目覚めた人となったと言ってもよいかもしれない。

 大正九年、氏の提案が動機となって神殿における神前奉仕が始められた。これは神前に奉仕するとともに、参拝者に対して教理を取り次ぎ、神殿をたすけの道場たらしめんとするものであったが、そのもう一つ奥には、ぢばが名実ともにたすけ一条のやしきたる実を備えることを念願したものであった。これは教会中心の思想と違い、また布教中心の思想とも違った。教会をして教会たらしめ、布教を可能にする根本のもの、すなわち、親神・ぢばの理に仕えることによって信仰中心の気運を醸成し、親神の御力によって、すべてのことを図ってゆこうとする思想であった。

 増野氏が教校の改心を目指したとき、それは松村氏と軸を同じくする思想の上に立っていた。松村氏がぢばが信仰の雰囲気に包まれることを念願したとするならば、増野氏は、教校が信仰の雰囲気に包まれることを第一としたのである。しかし、いかに信仰の雰囲気があっても、人々の心にそれを受け取るだけの心の理がなかったならば、一方的なものにすぎない。本部の意思と一般教会の意思が一つにならなければ、自由自在の理は見せていただけない。しかし、順序から言って、まず本部が率先してそうした信仰的な雰囲気を求め、親神の自由をお働きによって事を進めてゆこうという心になった以上、それはおのずと一般教会に映るのは当然である。果然人々の心はぢばへ向かい、教校別科生は倍加倍加というふうに増えていった。ぢば中心主義は、こうした姿においてその正しさを実証し、人々はまた心の目を新たに開くことになり、一つの信仰の転機を迎えることになったのである。

 ところで、人間の心はそれぞれ皆違っている。その違っている心を一つにするためには、すべての人が自分中心の考えを捨て、神の心に合わしてゆかなければ、永遠に心が一つになることはできない。では、どうすれば皆銘々に違っている心を一つにし、すべての人々がぢば中心、信仰中心に立ち返ることができるのか。この点に、実は最大の課題と苦心があったのである。

 教理を徳だけではそれは冷ややかで、人の心を動かすことはできない。人間んが人間を動かすことには限界がある。人間の心を動かすには、どうしても人間の心より強い意志によらなければならない。そうなると、すべての人間の思い・努力以上のもの、すなわち「一切を親神にお任せ申す」より他ない。親神に働いていただくためには、それだけの理を尽くさなければならない。すなわち、心を澄まし、人間思案を越える苦労をしなければ働いていただけない。

 このように、四十年祭の打ち出しを前にして、本部は一切を親神にすがって、そのお働きによってすべての事を成してゆこうとする心と姿を示し始めた。これが時旬に先がけてぢばに現れた姿であり、これがぢば中心主義の意味するものだったと思われる。

 人間の目からすれば、そうした心を松村氏が、増野氏が、あるいは当時の本部の人たちが起こしたことになる。それには違いはないけれども、なぜそうした心が生ずるに至ったのかを探ってゆくと、人間の言葉で言えば時代の要請、別の言葉で言うと時旬の動き、自覚というものが働いていたのである。そうでなければ、それが人を動かす力とはなり得ない。

 

 

 

一六、大衆路線

 当時、道友社編集主任でもあった増野氏は、大正九年六月号の『道乃友』に、「暗黒世界へ」と題するいささか文学的な表現を持つ、型破りな巻頭言を書いた。

 増野氏はよく、「堕落した者でなければ信仰は分からない」と言っていた。また、「自分の心が本当に澄んでないから、人にその理が説けない。その理が映らない」ともさんげしていた。氏はまさに、自分の心の中において暗黒を意識していたのである。人は、畢竟(ひっきょう)この暗黒の世界から脱し切れないものかもしれない。しかしこの暗黒がある故に、一層親神の教えの意味が深くなってくるのである。氏は、自分の心の底にそれを強く感じるとともに、外部においてもそれを認めていた。すべての人の心に潜む暗黒の世界をよく知っていた。そして、その暗黒の世界へ突進しようとしていた。それは真直に一つの方向を指した。

   「大衆の中へ行け、街頭に立て」と。

 大衆という言葉は、大正時代になってよく使われるようになった。天理教でも大衆布教が言われ始めたのは、やはり大正になってからである。もちろん、貧民の中に飛び込んで捨身のおたすけを展開した天理教人は数多くいた。しかし、ちゃんとした教会ができてくると、そうした気風はいくらか薄らいできた。そこに天理教が活力を失い、自己に閉じこもる一つの原因があったとも言える。

 しかし増野氏は、そういうことに影響されて「街頭に立て」ということを思い立ったわけではない。実はこれは、ぢば中心主義から出てくる当然の帰結であった。ぢば中心主義によって天理教の中に信仰の情熱が復活してくるならば、それは外へ向かってあふれてゆくことになる。それを待っているのは、疲れ、悶え、泣き、苦しむ人たち、すなわち大衆である。天理教が真実の心に立ち返ったとき、その目に映るのは自分や教会ではなく、これら大衆である。今やその中に真直に入っていって、大胆に教えを説き、光明をもたらさなければならない。今の言葉でいうと、現状に甘んじることなく、勇んでにをいがけ・おたすけに出ようということである。それを増野氏は、ことに若い人に向かって呼びかけた。そして、大正九年十月号の『道乃友』の冒頭に「街頭に立て」と題する一文を載せ、「巷に出て、天理王命の名を高く唱えようではないか」と唱導したのである。

 これは教会の中に閉じこもって、鬱積したものを持て余している青年を引っ張り出して、街頭にその活動の天地を与え、それを契機として天理教の大勢を静から動へてんじさせようという意図が含まれていた。

 この呼びかけによって、東京、大阪でのろしが挙げられた青年による路傍講演の動きは、全教に広がり始めた。教校生も秋季大祭を期として、有志百五十人が八組に分かれて三日間、親里の各地に赤い高張を立てて街頭に立った。神戸、京都、四国、さらには朝鮮の京城においてもその火は広がった。青年は自分の活動の天地を見出して、自身と勇気を取り戻した。この中には、今まで教会制度の中に形式化し固定化していた天理教を、束縛から解き放し、もっと広い自由なものにしようとする意図が含まれていた。

 ぢば中心主義が求心的な、内面的な性格強いものとするならば、こうした街頭進出は、外向的な活動的な性格のものであった。それだけに、苦しい内面世界の探求の道を避けて、もっぱら外部に向かって活動することに生きがいを見出そうとする信仰を、一つの「活動」と見る傾向もあったし、一部では組織に対して反抗的に、また示威的に、あるいは新しいものに飛び付くようにして、街頭講演に出た者もあったが、全体として見たとき、青年は「われわれは教祖のお伴をして大衆の中へ入ってゆくのだ。それがわれわれの使命だ」という喜びを味わうようになった。また、「自分たちは大衆と共にあるのだ」と意識するだけで、何か新しいエネルギーが感じられてきた。この意味から言うと、街頭進出は信仰の本質ではないとしても、やはり天理教の転換の一つの動機になったと言えるものであった。

 こうして、ぢば中心主義と大衆路線を軸として、四十年祭の前哨は始まった。

 

 

 

十七、積極論と消極論

 大正十年一月二十六日、教会本部は直属教会長を全員招集した。そして松村吉太郎、板倉槌三郎、高井猶吉の三本部員が出席して、教祖四十年祭を来たる大正十五年の一月に執行する旨の発表があり、その準備について種々相談するところがあった。

 五年も前に年祭の発表があるということは、本部が大きな決意をもって準備に当たろうとしていることを物語っていた。もっとも三十年祭は、九年も前におさしづによって打ち出された歴史がある。しかもこのときは、御本席の身上というふしがあり、また神殿建築という大事業が具体的な目標として示されていた。それに比すると、四十年祭の打ち出しには、そうした具体的な目標は示されていなかった。

 しかし松村吉太郎氏は、このとき大体二つの根本的な構想、方針を心に描いていた。その一つはぢばの拡張であり、もう一つは教勢の倍加であった。

 ぢばの拡張は、信仰的なぢば中心主義から出てくる根本方針であった。今は天理教人にとって確固不抜のよりどころとなるものは、ぢばの理をおいて他にない。したがって、ぢばの拡張に対して不満や疑念を抱く人はいないはずであった。

 しかし当時の教会は疲れ、人々は教会中心思想に陥っていた。そういう状況において、大規模なぢばの拡張を目指すことになると、実際には一つの矛盾に突き当たるという人も少なくなかった。それは、教会が疲弊し借金で頭が回らず、自分のことで精一杯なのに、まだその上にぢばのために尽くすとなると、自分のところは立ち行かないという考えであった。

 また、教勢の倍加や教会の倍加に関しても、反対意見が最初からあった。その意見は次の三点に集約される。

(一)この道は天然自然の道であって、人為的に、短期間で教会を倍加するのは、その   天然自然の理に反するのではないか。

(二)教会倍加は、教勢の拡張という外面的なことに重きを置くものであって、それで   は肝心の心の成人という面が抜けてしまうことにはならない。

(三)教会の倍加にとらわれると、例えば現在百戸の信徒を二つに分けて、五十戸、五   十戸として教会を倍加するようなところも出てくるかもしれない。そうなれば、   かえって教勢の分裂をきたし、弱体化を招くのでなないか。

 いつの時代にも、積極的な人と消極的な人とがいることは仕方のないことである。両方に、それぞれの理由なり根拠がある。しかし、四十年祭が打ち出された以上、一手一つになって目標に進まなければ、どんなに皆が力を出しても、方向がバラバラでは大した御守護は見せていただけない。論議をしても前へは進まない。四十年祭においては、いわば積極派の人が主流となり、それが全教に波を湧き立たせたのであるが、どういう経路でそうなっていったかは一つの問題である。

 当時、積極派の中心は松村吉太郎氏であり、さらに増野道興氏であったことは、大体において間違いないと言える。ことに増野氏の信仰は、大正八年頃から十四年頃までが、その絶頂であった。

 四十年祭の打ち出しがあった同じ日の午前十時から、かんす山の校庭で、天理教校同窓会第二回総会が行われた。増野氏はその数日前の二十二日に、生後百日程で長女が出直すふしに遭い、悲しみの中に、いかなる神様のお知らせであるか判然とせぬまま心を悩ましていた。この日氏は、そういう個人的な事情も知って襟を正している同窓生を前にして、一場の講演を行った。これが四十年祭に対する直接の第一声であった。

 この講演は、感情に激した大声疾呼とは異なり、静かで深い口調であり、いくらか悲痛な色調を呈していた。氏は常々、大声疾呼して人を踊らせることを軽蔑していた。それで人はうごくものでないということを知悉(ちしつ)していたし、むしろ、深い心があるならば、うつむいて黙々と一人行くのが真の信仰者であると信じていた。講演の最後で氏は、あたかも自分に言い聞かせるようにこう結んだ。

   神様は「出来ん事出来るが神の道」(明治四十年四月九日)と仰せられている。自分でできると思うことは、そう思うことがすでに神様の力を無視しているから、かえってできぬことになる。できんと思うことは、神様にすがる心があるから、それは成り立ってくるのである。故に、自分の力ではできにくと思われるだけの、大きい心を定める必要がある。

 大体心定めをする上で、二つの重要なことがある。心定めをして、それが神様の御心に叶うたときは、心に勇んだ理が出てくる。故に心定めは、この喜びが心に湧くところまで定めなければならない。次に心を定めたなら、それが大きければ大きいだけ、苦痛も大きいのである。それは覚悟をしておかねばならない。しかし、苦痛の後には必ず神様が近寄ってきてくださるのだから、そこさえ通り越せば必ず幸福が与えられる。

 これを要約すれば、心定めは、内においては大なる喜悦を感じなければならず、外に対しては大なる苦痛を見なければならぬことを覚悟して、なるだけ大きい望みを持つことが必要である。それさえできれば、いかなる大事業も必ず完成し得る。私は心からその日の実現することを希望し、かつ憧憬するものである  と。

 

 

 

十八、眠れる獅子は立った

 四十年祭のことが決した以上、それが成るから成らんか、またいかなる形と内容をもって現れてくるかは誰にも予測できないことであった。その中をあえて進もうというのであれば、四十年祭は文字通り大きなふしであり、真剣命懸けの道であった。その真剣命懸けの努力によって、天理教はここまで来たのである。

 しかし、教会倍加を実行するについては、まず教勢の現状を正確に把握する必要があった。大正十年頃というと、信仰は復活に向かい、教理の本筋が表に現れ、教校別科生は次第に増し、青年会の活動は上げ潮に向かうという好材料はあったが、それでも一般の教会は借財に苦しみ、そのためにをいがけ・おたすけという方向に活動が進むのが遅れていた。常識からいくならば、教会が疲弊しているから大きな荷物は背負わせなれない。重荷を課せばつぶれてしまうことになる。しかし、この道はその常識とは逆で、教会が疲弊しているからこそ、その泥沼から真実の理のある苦労をすることによってよみがえるのだ、というのが松村氏の積極論の根底にあるものであった。

 旬の理、刻限の理を知らない者からすれば、教会倍加は、天然自然の理に反することだと思われるのも当然であった。しかしそれは、楯の反面しか見ない者のいうことであって、天然自然の道においても、わずかの間に急激に伸びる旬が必ずある。そして、今やその旬が来たのである、と。

 しかし、これは信念としては偉大であっても、ただそれだけでは人を動かす力とはなり得ないものであった。それには、実地においてその先陣を切って雛形を示し、人の心を揺り動かすものを、どうしてもすべての人の目に映さなければならなかった。その先陣を切ったのが増野氏であり、その背後には、おそらく松村氏の悲願が込められていたものと想像される。

 大正十年三月二十三日、増野氏は敷島大教会長に就任した。長女の出直しは、このためのお知らせであったに違いないと心に悟った氏は、その頃「眠れる獅子」と呼ばれた敷島に乗り込んだ。当時の敷島は、大教会も部内教会もドン底にあえいでいて、おたすけ活動も鈍りがちであった。

 就任早々、増野氏は爆弾を投げ付けるような提言をした。大正十年中に、五十カ所の教会名称を設置すること、また教校別科生を百五十人募集することである。そのために四月には早くも講習会を開き、眠りを覚まさせようと真剣命懸けの努力を傾けた。

 氏の言わんとすることを簡潔にまとめると、「大教会の借金は会長が責任を持って片付ける。だから部内の者は、一意専心おたすけに渾身の力を注げ」ということであった。しかし、この決心は多くの人には、三十を越したばかりの経験のない会長が夢のようなことを言う、ぐらいにしか受け取られなかった。しかし、そういう気分こそ一新する必要があった。深い心を定めて一歩も退かない覚悟さえあれば、必ず神様が働いてくださる。どういう形で現れてくるかは分からないが、それまで持ちこたえ、通り切ることができるかどうか、そこが岐路だ。しかし、すでのさいは投げられた。前に進むより他に道はない。こうして増野氏は、講習会において「おぢばのために玉砕しようではないか」と叫んだ。

   神様は人に難儀さそう、不自由さそうとしてこの道をつけられたのではない。もし難儀し、不自由しているのであれば、それは神様の道を歩いていないからそうなったのである。しかし今日からは、神様のおっしゃる通りにやってみよう。それをやって、もし自分のところが潰れてしまうのであれば、潰れてもよいではないか。大体やりもしない先から心配するような小さい心では、神様のお働きを心で止めているようなものだ。やってみて、教理が本当であるかどうか試してみたらよい。そうしたら本当の神様の働きが分かってくる。この意味で、敷島が四十年祭のために、御本部のために倒れても満足である。なぜなら、神の道を立てるために敷島が立っているからである  

 この魂の叫びは、全講習生の心を揺さぶった。しかし現実には、この期間中に大教会は借財の整理をする必要に迫られていた。これをどうするかについて、増野氏の信念はついに役員らを動かした。そしてぎりぎりの三日目になって、それは一挙に解決したのである。この鮮やかな神様のお働きが、講習生の心から心へと響いていった。信じて通り切れば、必ず神様が働いてくださることを目の前に見たのである。それは、がぜん興奮と感動を呼び起こした。そして、「よし、この旬に自分もやってみよう」という心を皆が固めた。

 これが、眠れる獅子が立ち上がるきっかけとなった。心一つがどれだけ大きいものか、そこが分かったのである。人々は、できると思った。やろうと思った。自分たちには神様が付いておいでになると、信じて疑わないほど成人していたのである。

 

 

 

十九、倍加運動の実際

 天理教は、あくまで心の成人の道であって、教会を設置することは目的ではない。それは決まりきったことである。にもかかわらず、なぜ教会の倍加が目標とされたのか、そこに一つの疑問がある。

 しかしこれは、神意を誤って受け取ったために起こる問題であって、倍加運動は倍加そのものが目的ではなかったのである。

 大体本部の意図するところは、次のようであったと解される。すなわち、盛大な年祭を執行して教祖の御心にお応えするためには、少ない道具では成し得ないのである。たくさんの道具が要る。そして教会とはその道具である。つまり教会とは、神意をこの世に実現するための道具であって、それ自体が目的ではない。

 したがって倍加ということは、たくさんの道具をまずつくって、しかる後にその道具で大きな働きをしてゆく、これが本当の目的である。教会の倍加は、教師の倍加、ようぼくの倍加ということである。世界たすけの用材が増えるということである。こうして第一段階の目標をひとまず倍加に置いて、日本国中に神名を流し、その勢いで次は海外へ進出する段階となるのである。さらに言えば、教祖四十年祭は、来るべき教祖五十年祭および立教百年祭に対する準備であるとも言える  

 倍加運動の真意は、およそこの辺にあったと思われる。しかし、実際にそれをどう人々が受け取ったのかになると、多少のずれが起きたことはやむを得なかった。しかしその点に触れる前に、ともかく大正九年末に四千九百二十五カ所であった教会が、昭和元年(大正十五年)末に一万二百七十八カ所となった。すなわち、倍加の実を挙げたことは事実であって、これは素晴らしいことである。そこで、それがどうしてできたのかという疑問が、当然起こってくる。

 おそらく倍加運動は、敷島大教会がその先陣を切る心構えを持ったことに端を発しているであろう。そして、全教にその声が盛り上がってきたのは、大正十年末頃である。大正十年の教会設置数は二百十九カ所であるから、それ以前とそう目立った変化はない。それが大正十一年には六百二、十二年には七百六十一、十三年には千九百十五、十四年には実に二千百八十七カ所という数に達している。これは一月平均百八十二カ所、一日平均六カ所の割合で教会が新しく生まれたことになる。誠に目覚ましい躍進と言わねばなるまい。

 大体天理教において、教会の設立ということは容易なことではない。人為的にそれが成し得るのであれば問題は簡単だが、親神の守護によりそれを成そうとすれば相当な年限がかかる。一人のようぼくにしても、その名に値する成人を遂げるまでには、やはり年限がかかる。しかし四十年祭においては、布教開始から教会設立までに要した期間は、二年半以内というのが最も多かったようである。

 また結果から大体の傾向を眺めると、倍加運動は、都市において多くの教会が設立され、農村においてはその伸びが少なかったようである。つまり、従来から布教が難しいといわれてきた地方は、依然としてその壁を破ることができなかったということも言える。これを概して言えば、天理教全体のウエイトは農村から都会に移り、大都会に布教者が密集するようになったのである。例えば東京は、大正十二年の関東大震災で空前の被害を受けたが、それでも教会数が約三倍になったという事実は、いかに東京に新天地を求めて布教者が集ったかを如実に物語っているものである。この傾向は以後ますます強まり、昭和に入ると、東京の町角に立っていると五分間置きに独特の服装をした天理教の布教者が歩く姿を見ることができた、という伝説が残っているほどである。

 

 

 

二十、倍加運動の結果

 さて倍加運動が、初期の目標を大体達することができたのは、いかなる理由であるかということだが、簡単に言えば、それは旬の理に従って皆が懸命にやったからということに尽きるわけで、それ以上ほじくってみてもあまり意味はない。しかし、ここでは二次的なものとして、若干の視点を示しておきたい。

 まず第一に考えられることは、倍加運動は無から有を生じたというより、それを可能にするだけの信者がすでにあったということである。教会倍加の中心となったのはようぼくであるが、このようぼくあるいは教師にどんな人がなったのかというと、昔から信仰していた信者が、四十年祭の旬の声に従って成人したという人がかなり多い。これは、教校別科生に入学した人の内容を見れば分かることで、新しく布教した結果として入学した者は、そう高い比率を占めるわけではない。つまり四十年祭は、それ以前の信仰の再編成であるという性格を抜きにしては、倍加運動を語ることはできないのである。

 次に考えられることは、下からの盛り上がりがあり、また、ことには第一線の布教者によって支持されたことである。本部にあらかじめ腹案はあったとしても、実際は敷島などの例に刺激され、そこに自然と声が起こってきた面が強かった。しかもそれが、各教会ごとにそれぞれ刺激し合い、競争し合うようにして、全教に渦を巻き起こしたのである。

 倍加運動で本当に布教したのは、やはり第一線の布教者であるが、この時代には極めて多くの単独布教者が出た。倍加運動は、これらの布教者に最もふさわしい目標として迎えられたのである。容易ではないけれども、できないことはないという地点に、具体的な目標があったことが大きな希望を与えた。

 しかし、こうした目で見る中には、実利的な傾向が流れていたことも見逃すわけにはいかない。上級教会長の中には、倍加運動をもって、部下の数を増やすことであると解して力を入れる、という向きも若干あったことは否定できない。またそのために、上級教会長も第一線布教者も倍加にとらわれて、いくらか功を焦る気持ちも確かにあった。

 倍加運動の目的は、教会を倍加することが目的ではなく、教会という道具をたくさんつくって、その道具で大きな働きをすることが目的であったのであるが、実地になってみると、教会を設立する以上、まず設立すること自体を目的としなければ達成することはできない。ましてや、機嫌は限られているのであるから、心の成人というよりまず形という方向に走ったのも、実際は無理からぬことであった。

 しかし、いずれにしても、多くの人が功を焦っていたとは言えるであろう。布教の重点が農村から都市に移ったのも、比較的布教のやりやすい都市に人々が集まったわけで、ある場合には、布教の上において能率を尊び、効果を上げることを第一とする気風もこの辺から生じたのかもしれない。布教力がそれほどない地方では、百戸の信者を二分して教会を倍加するところも出てきたし、看板だけの教会もあったし、さまざまな姿がそこにはあった。現在でも、「倍加教会」という悪評が立てられるのは仕方のないことであるが、しかし、倍加運動でできたすべての教会に内容がなかったというわけではない。その後、素晴らしい発展を見せた教会はいくらでもある。それは要するに、教会設立だけを目標として働いたのか、それとも人だすけ、心の成人をより大きな目標として働いたのかの違いから出てきたものである。

 この道は、心の成人の道であるけれども、心はじっとしていて成人するものではない。成人を促す具体的なふしが数多くあってこそ、初めて成人してゆくのである。倍加運動も成人のためのふしとして与えられたものであるが、それを自分のものとして受け取ったところに一定水準の成人があり、それ以上は、どこに各人が心を置いていたかで、さまざまな差が出たのであろう。

 倍加運動については、今日でも賛否両論がある。しかし、歴史の流れの中でこれを眺めると、やはりこれは一つの旬の動きであって、その持つ意義は大きい。ただ人間の常として、こうしたことから天理教の信仰者の目が、自分の心を掘り下げてゆくことより、外的がことに目が向けられ、活動的になり、派手になり、都会的になったということは言えるようである。同時に、実利的な色彩も加わってきた。

 こうした傾向は、すでに大正十三年頃から自覚され、増野氏はたびたび、活動が上滑りをし、浮ついていることに警告を発していた。氏はあくまで神一条を念願とし、心の道を目的とした人であるが、その心をつくるために、具体的な目標の中に生きて信仰をつかまねばならなかったという矛盾の中に、その心は次第に苦悩していった。倍加運動が成功し、全教が熱狂的になってゆくのに反比例して、天理教は何か大切なものを忘れているのではないだろうか、という深い疑問が生まれてきた。これは言い換えると、心にかかっていた消極論の杞憂(きゆう)の復活であった。このジレンマの中で、やがて氏は教理の行き詰まりを覚え、だんだんと暗く懐疑的になっていく。そして最後は、その解決のめどが付かず、現状に失望して「どうしたらいいか。それは考えることです。深く考えることです」「すべては時が解決します。待つことです。ただ待つことです」という沈痛な言葉を残して、昭和三年に出直した。

 四十年祭は、大正十四年までは松村吉太郎氏と増野道興氏によって進められ、倍加運動がその主眼であった。それがともかく外的には成功しつつ十四年に達したとき、天理教の局面はがらりと変わって、次の時代に入ってゆくことになった。

 

 

 

終わりにあたって

 以上、誠に不十分な記述であったが、四十年祭当時の信仰の状態とその変動の一面を描いてみた。四十年祭の全貌はさらに研究を要するが、いまだ評価を下し得ない面も多いので、一応この辺で筆を止めることにした。史料は、相当正確を期したつもりであるが、どの線をとるかについては、私の記述は少し主観的であったかもしれない。しかし、自分としては、一つの仮説を立てて書いたまでのことで、これを証明するには、五十年祭、さらには現在、また現在から十年後くらいまでの見通しを必要とするものと思う。

 最後に、参考文献のうち主要なものを次に掲げておく。

  

  中山正善 『年祭回顧録』

       『続年祭回顧録』

       『天理教伝道者に関する調査』

  増野道興 『増野鼓雪全集』(全二十四巻)

  松村吉太郎『道の八十年』

  上田理太郎『道友五十年』

       『増野鼓雪先生・その信仰と生涯』

  『本部員講話集』

  『道乃友』(大正五年  昭和八年)

  『みちのとも』(昭和九年  昭和十五年)

  各大教会史、分教会史

 

 

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天理青年必読「疾風怒濤の時代(3)」 木村牧生(西村輝夫)著

どうも、疾風怒濤のコムヨシです。

連載「疾風怒濤の時代」の続きです。

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天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

 

 

 それでは、パート3いってみましょう。

 

 

十、〝一六(いちろく)もの〟と青年

 大正というのは、人類が初めて世界的な規模で戦争を経験した時代である。大正三年に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパを主戦場にして人間の間に憎悪と荒廃をもたらし、とどまるところを知らなかった。

 大正六年三月、ロシアに革命が起こり、皇帝は幽閉された。マルクス共産主義思想は、生前彼が最も嫌っていたロシアの国に、初めて現実的な力として定着する第一義を踏み出した。

 翌七年、西部戦線にも異常が起こり、八月には、さしものドイツ軍も総退却を始めた。ドイツ国内にも反乱が起こり、間もなく皇帝はオランダに亡命。ここに、ロシア・ドイツという二つの帝国の解体と、十二月には、長い大戦も連合軍の勝利のうち幕を閉じた。今後の世界はどう動くのか、それは誰にも予測がつかなかった。

 日本はこの大戦で、ほとんど労することなくうまい汁を吸った。しかしこの甘い夢が、やがて次の破滅的な戦争へ日本を駆り立てるもとになるのである。七年の八月には、米騒動という一種の革命前夜を思わせる大事件が起こった。

 こうした激動の時期にあって、天理教の中にようやく三十年祭後の沈滞を打ち破る、新しい芽が生まれようとしていた。大正七年四月、二代真柱様が天理中学校に入学したことがその最初の息吹である。そしてこの年の十月二十五日、天理教青年会が創設された。

 ところで青年会の創設は、すでに明治四十三年に発足していた婦人会に比べると、十年も遅れている。大正七年というと、教会ができてから三十年以上にもなる。この間に青年がいなかったわけではない。無気力で何もしなかったわけではなく、むしろ、地方の青年会活動は相当活発な時期があった。ただ、松村吉太郎氏の言葉を借りると、「始アッテ終ガナイ」という状態の繰り返しであったために、統合された青年会は誕生しなかったのである。

 明治三十一年六月三日の本部青年会に関するおさしづによると、青年会の創設までには年限がかかる、という意味のお言葉がある。また、なかなか容易にはできないけれども、できたら大きな力になるとも教えられている。ここから考えると、青年会の発足が遅れたのは、神意によるお図らいであったことが分かる。同時に、青年会をつくることは必要であるが、「台無しに働いてはならん」とも言われている。台というのは心である。とすれば、心さえできればいつでも青年会はできるが、その心は容易にできるものではないということであろう。その点からすると、青年自体に何かその原因たるべきものがあったのだ、と言わなければならぬであろう。

 大体、当時の天理教の実態は、老荘年の人の手に完全に握られていて、青年の意見などはほとんど取り上げられることがなかった。これらの人は、財産をささげて久しい困苦に耐えぬき、弾圧の波をくぐり抜けて教会制度の根底を築き上げた、いわゆる筋金入りの人たちであった。そこには、明治という時代からくる封建的な気質や、初代特有のあくの強さというものがあった。また、次第に教会をむしばみつつあった物質への傾斜や情実、あるいは陋習(ろうしゅう)ともいわれるべきものもあったであろうが、信仰年限と実績とうい点において、青年はとても頭が上がらなかった。

 初代の信仰に比べると、二代の青年の信仰は、いわば根のない信仰であった。たすけられた喜びや、人だすけの苦労、深いさんげもなかった。しかし、古い人に対する反発心だけはあって、ともすればそれは、教会制度に対する批判という形で現れることが多かった。信仰に対する内的な必然性が乏しいだけに、社会の新しい思想に影響されることも多かった。元気はあっても、それはしばしば勝手気ままな方向に暴走しがちであった。また、学問を修めた青年も出てきたが、信仰の世界にあっては法学士や文学士という肩書きで人は動くものではなかった。

 そうした青年の心情に深い理解をもって、その善導に最も心を傾けられたのは、初代真柱様であった。そして実際、その温情によって多くの青年が、道の上のようぼくとして生まれ替わっていったのである。初代真柱様が、当時の青年をどう見ておられたか、一例としてこんな話しがある。

 あるとき初代真柱様が、船場大教会の新築奉告祭に臨まれたが、当時青年であった喜多秀太郎氏が、一年志願の兵役に行くことを願ったところ、「見合わせておけ」ということであったので、秀太郎氏は内心甚だ不満であった。すると初代真柱様は、随行の本部員に向かって「本部員は世継ぎではない。一名一人の積んだ効能の理で後が継がれるのや。自分が道を通った以上、後継者を仕込んで道の役に立つようにせねばならぬ」と話されてから、「喜多の秀さんと桝井の安さんと、増野の道さんの三人は、こりゃ〝一六もの〟だ。親の仕込み次第で悪ともなれば善ともなる」と諭された。

 その席には、桝井伊三郎、増野正兵衛、喜多治郎吉、それに梅谷四郎兵衛氏らがいたが、いずれも恐縮して頭を上げる者はいなかったという。「一六もの」というのは、振ってみて、さいころの目が一と出るか、対の六と出るか、どちらになるか分からないという意味であろう。道の上に働こうか、それとも外へ飛び出そうか、いずれにしても一筋心に成り切っていないのが青年の通弊(つうへい)であるということでもあろう。当時の秀太郎氏の心境が、まさにその通りであった。氏は、この話で悟るところがあって心を取り直したのであるが、秀太郎と同じく一六ものといわれた増野道興氏に至っては、心の揺れ方がさらに極端な青年時代を送ったのである。それが、初代真柱様の薫陶を受けて三年間青年勤めをまっとうし、信仰の復活の道をたどり、やがて大胆に神一条の世界へ歩みを進めていったのである。

 大正七年の青年会創設に際しては、この喜多氏と増井氏、それに中山為信氏が初の青年会理事に任命されたが、この時期が初代真柱様の五年祭にあたることを振り返ると、青年会を育てたのは初代真柱様であったことがよく分かる。しかしその前には、青年自体の心の条件があって、いわゆる一六ものから道のものへなることが必要であったであろうし、それがおさしづに示されたところでもあったであろう。

 

 

 

十一、青年会の課題

「始アッテ終ガナイ」と松村吉太郎氏を嘆かせた青年会活動の中で、最も持久力を示したのは大阪青年会であった。これは明治四十五年に始まり、大正八年に発展的解散をするまで続き、相当な成果を上げた。この時代の天理教は、ある意味においては、大阪を中心として動いていた。その主宰は増野道興氏で、発起人として、宮田佐蔵、長谷川理一氏らがあった。

 大阪青年会は、初めは教務支庁を会場として講演会を開き、その後は芦津と船場大教会とを交互に会場としたが、会を重ねるうちに大阪の名物となり、会場はいつも溢れる程の盛況を見せた。神戸や京都辺りから、この日を待ちかねてはせ参じる人もあった。これは、青年の生の信仰体験をそのまま聴衆にぶつけるという方針が当たったこともあるが、一面、当時の人がいかにこうした自由な講演会を待ち望み、教理に飢えていたかを物語るものでもあった。

 しかし一方で一部の古い人はあくまで道の布教は講演などではなく、個人布教にあるという信念をもって譲らなかったので、どうしても溝があることは免れなかった。

 これに対して、学生を主体とする東京青年会は、明治四十一年に始まった。大阪が振興体験と教理の真実性を尊重するのに対して、東京は社会的な関心が強く、新しい思想に対決しようという態度が強かった。そしてこれらの人は、『焰(ほむら)の嵐』(後に『教えの光』と改題)という同人誌によって、まず文章面から活動を起こした。

 大正六年には、東京の学生が雑誌『三才』を創刊した。同人は、山澤(中山)為信、諸井慶五郎、村田(堀越)儀郎氏らであった。これらの人は、本部あるいは大教会の子弟が主であって、いずれは教団の指導者となるべき立場の人たちであった。いずれにしても当時の人は、大阪のようによく講演して臆するところがなく、また大胆に革新的な意見を発表して屈しなかった。これに対して、大正七年にはすでに本部員に任ぜられていた増野道興氏は、次のような意見を持っていた。

「現在の青年諸君の信仰を大観しますと、次第に信仰が薄弱になってきたように思うのであります。何事も真剣になって、神様に御奉公という心持ちがなくなってきたように思われます。これでは本教将来のために大いに愁えなけれななりません。近年、信仰の衰退とともに、青年尾思想が信仰を離れて、社会的の標準によって何事もする傾向が現れてきました。これは一見甚だ良いようにでありますが、神意をもって生活の標準にする信仰生活とは、ほとんど矛盾するものであります」

 しかし氏は一面、天理教がこのように推移してゆくのも、いわば必然的な歩みであると認識していた。今までの人格中心的な生き方から教理中心へ変わることは、時代の動きとしてやむを得ないと考えていたのである。つまり、今までのように不思議なたすけをあげるような人がだんだん少なくなって、代わりに知的な傾向が現れてくることは仕方がないと思っていたのである。

 増野氏の考え方は、当時の本部青年会取締である松村吉太郎氏らに通ずるものがあったようである。これらの人は、青年会は発展せしめなければならぬという責任は十分感じていたが、まだそれほど心ができていないばかりでなく、青年の思想の向かうところが、はなはだ危険であるとさえ感じていた。まずくすると、新旧思想の衝突という時代をまねくこともおそれていた。しかし、初代の課題と二代の課題は、やはり時代によってちがうのである。それに、成長してきた青年の存在というものは、もはや無視できない勢力であった。いずれにしても、こういう形で旬がきたとの判断であったろうか、これらの青年取締から青年会の創立がすすめられ、真柱のお許しを得て発足する運びとなったのである。

 青年会が誕生したことは、天理教の中で、初代と二代が手をたずさえて進む体制ができたということであった。この出来事は、予想以上の新風をもたらした。青年は、活動の舞台が与えられた喜びで勇み立った。

 

 

 

十二、天理教校の発展

 大正九年一月、若き本部員増野道興氏は天理教校長に任ぜられた。天理教校は、それまで山澤摂行者が校長であったが、その頃の別科生は一期二、三百人にすぎなかった。それが増野氏の時代になって激増し、おぢばが別科生の波に埋まるという盛況になったのである。

 増野氏が校長に任ぜられた六年間に、合計三万三百七十八人という別科生が、氏の息吹のもとに育ったことになる。また氏の別科生に対する講話がまとめられ、『講壇より』とか『教館の日』という本となって道友社から出版され、それが記録破りに売れていったのである。その影響のもとに、多くの人が四十年祭の奉仕に従事し、布教に挺身(ていしん)したのであるから、四十年祭に関する限り増野氏の影響というものは誠に計り難いものがある。

 このように別科生が急増したのは、何といっても四十年祭という旬の動きによるものではあるが、増野氏自身の努力による面が多分にあったことは疑う余地もない。では、なぜそのように別科生が増え、また卒業生の多くが勇んで布教に従事するに至ったのか。そこでどんな教理が説かれたのか。この問題は、どうしても見逃せない点である。

 この頃の記録によると、別科生は年間を通じて一万人前後がピークであった。それでもこの時代の別科は、現在の修養科と違って六ヶ月を期間とし、年二回の入学であった。当時の教会数と比較すると、やはり大した数であったと言わねばならない。

 さらに、四十年祭頃の教会長、教師の状態について、大正九年には教師の数は約二万七千ぐらいであった。それが大正十五年には倍の五万四千になっているのであるが、その特徴を挙げてみると、大正九年には男の教師のほうがはるかに多く、二万七千の中で女の教師はわずか千三百くらいにすぎなかった。男二十人に女一人くらいだったのである。それが大正十五年には、女の教師が一万一千以上になり、男五人に女一人の割合になったのであるから、四十年祭活動の期間を通じて天理教全体としては一つの体質の変化が起こったと言える。

 ところで天理教校は、布教師や教師の養成を主要な目的としている教学施設である。天理教が発展するかしないかは、布教師や教師の双肩にある以上、これらの人がどんな信仰を持っているかということは、極めて重大である。その天理教校の教育方針に対して、増野氏はかねてから一つの不満を持っていた。それは何かというと、教師の資格を取ることを主にして、信仰面の開発が従になっているのではないかということであった。そこで校長就任を機にして、その内容を一変せしめることを図ったのである。

 増野氏はかねてから、おぢばと三島は違うということをよく言っていた。心がなかったならば、建物や町並みが目に映るだけであって。それでは単に三島にやって来たにすぎない。おぢばに帰り、おぢばの理を受けるためには、心の目が開かれていなければならない。この観点に立って氏は、就任早々「心霊の開発」ということを教育方針としたのである。

 そのためには教校のみならず、別科生の起臥(きが)する詰所も、霊地にふさわしい雰囲気を持つ必要がある。そこで氏は、まず詰所主任を招いて趣旨を説明し、その協力を求めた。しかる後に、教校の改心に取りかかった。それによって教校は、従来の古神道的な色彩が一掃されて、道のようぼくを養成するにふさわしい雰囲気と内容を持った学校になったのである。

 建設の裏には必ず破壊がある。巨大なビルを建てようとすれば、群小の住居は非情にこわさなければならない。天理教における破壊というのは、常に人間思案、人間の常識、あるいは形式的な信仰の破壊を意味する。人間思案が破壊された後に、初めて神一条の世界が心に映り、建設されてくるのである。教祖の一生は、言うなれば神一条の建設のために徹底的な人間思案の破壊に従事されたひながたであった。それと同じように増野氏は、教校というものは、常識を破壊するところであり、しかる後に各自が自ら悟ってゆくべきものであると考えた。

 それは、ソクラテス的方法を連想させるものがある。ソクラテスは、「自分は教師ではなく産婆である」と説いたが、それは、心理は各自が悟るべきものであり、各自はそれを成し得るものを内に持っている。ただしそのためには、常識を破壊しなければならない。常識を破壊した後、初めて心理は生まれてくる。自分はその手伝いをするだけであって、自分は教師ではないというのであった。

 増野氏は、信仰というものは教育によってできるものではないと考えていた。教理は教えられるものかもしれないが、そんな教理は教えられるものかもしれないが、そんな教理では人は決して動くものでないということも知っていた。人格を通じて流れてくる教理にして、初めて人の心を神の方へ向けさせ、そこに不思議なたすけも起こってくる。その人格の根本を成すものは何か。それは誠真実に他ならない。増野氏の教育方針の根本は誠真実ということであり、その方法はまず常識の破壊をということであり、それもできるだけ徹底するほうが良いというところにあった。

 

 

 

十三、破壊と建設

 ところで増野氏は、決して雄弁な人ではなかった。素面(しらふ)で話すときは、むしろ口ごもりがちであった。どちらかというと、酒が入っているほうが滑らかであった。しかしその一言一句は、ことごとく胸の底から生まれてきたもので、いっぺんに心を決めさせる力を持っていた。

「ひのきしん」という課目が正科として取り入れられたのは、増野氏が初めて校長になって指導した第二十四期からである。これに対して多少面白くないと感じた者もいたらしい。あるとき氏はこう言った。

「お前たち、ひのきしんしたくなかったらしなくてもかまわぬが、その後お前たちがどうなるか考えてみろ」

「お前たちは、土持ちしたらひのきしんで、それでいんねんが切れると思っているが、そんなら土方は毎日いんねんが切れていることになるな」

 こんな調子で、生徒の常識、固定観念をかき回し、混乱に落し入れ、そこで各自に考えさせた。また考えさせる力を持っていた。教理を決して説明しなかったし結論を言わなかった。そこで生徒はいつも黙って考え込んで、休憩時間になってもたばこを吸うのを忘れる者が少なくなかった。

 しかしこんなことは、要するに方法にすぎない。ただともかく氏は、常識や人間思案に覆われた人間の心の茂みの中を分け入り、土足でズカズカとその中に芦を踏み入れようとしていたのである。道は真剣勝負であり、体裁も何も要らないというのがその信念であった。人間思案を破壊すれば、そこに真実に触れてくるものがある。では真実に触れたとき、人間はどうなるか。

「そのとき人間は、怒るか、泣くか、笑うか、三つのうち一つだ。これ以外は皆うそだ」

 実際増野氏は、人を怒らせ泣かすことの多かった人であったかもしれない。しかしそれでも恐れずに、頭ではなく心に向かって常に勝負を挑んだ。 

 氏に向かってある人がこう言った。

「先生のように、やることなすことすべて当たるのなら、相場師になったら良かったですな」

 そのとき氏は胸を張ってうそぶいた。

「なあに、俺は人間を相手に相場を張っているのだ」と。

 しかし、こんなところに氏の教育の秘密があったわけではない。信仰の世界にそんな秘密などない。もしあるとすれば、別科第二十四期生を送り出した際、次のように述べたところにあるのかもしれない。

「……心霊の開発ということのみを目的としては、大きな燃えるような信仰が生まれてこないことを実地の上から知ることができた。それで今度は、できるならば今一歩進めて、一才を神様にお任せ申して、神様によって教育していただこうと思うのである。これは、ちょっと考えると甚だ無責任のようであるが、自己というものの意義を真実に自覚した方々は、私の申すことは十分理解していただけると思う……」

 この「一切を神様にお任せ申す」という信仰の中に、実は氏の面目があったと見るべきである。しかしこれには、多少の解説がいるかもしれない。例を挙げていうと、こういうことがあった。

 第二十五期生に対して、氏はあるときこう言った。

「二十四期では、在学中に三分の一くらいが身上を頂いた。今度は二十五期だが、お前たちはこれでいくと半分は身上になるだろうな」

 そして、あっけに取られている生徒に、なおもこう続けた。

「しかし、お前たちは別にびくびくしなくてもいいし、勝手なことをしてもよい。俺は監督なんかしない。ほったらかす。神様が監督してくださるだけだ。しかし、もし俺が本当に誠真実になれば、お前たちは片っ端から、皆バタバタと倒れてしまうな」

 氏は信じていたのである。人間が真にさんげに徹し、真実の心定めをすれば、その心に必ず喜びが湧く。喜びが湧くということは、神様にその心を受け取ってもらった証拠である。神様に受け取ってもらえると次に何が起こるかというと、必ず困難が起きてくるのである。それが、神様の近づいてこられるしるしだと。

 困難というのは、人間にとって身上事情を意味する。すでに「一切を神様にお任せ申した」以上は、氏は生徒に何も要求しなかった。ただ責任者である自分が、真実を供えるだけであった。それは、生徒に代わってするものであったに違いない。すると神様は必ず生徒に身上のしるしを付けて仕込んでくださる。単なる人間から、神のようぼくとして生まれ替わるよう急き込んでくださる。だから自分としては、そのように神様が働いてくださるよう、真実さえ尽くしていけばそれで良いのだ。  おそらくこれが底流にあった信仰信念であったに違いない。そのためには、容易ならぬ心定めがあったと想像されるのであるが、それはもはや、詮索すべきものではないであろう。

 信念がそこにある以上、氏の態度は極めて単純であった。何を生徒に対して話そうとしたのか。それは一つしかなかった。「誠真実になれ」ただこれだけであった。

 氏は、頼るべきものは心一つであるということに徹底していた。形の上の教会というものなど信じていなかった。もとより教会の数というものも、頼るべきものではなかった。もし頼るべきものがあるとするならば、名称の理の芯である教会長の心一つ、布教師、ようぼくのお心一つだけであった。その心が人間思案に覆われ、物質に追い回され、真実を喪失しているならば、それは教会でもなければ、布教師でもない。もとより神様の働きがあろうはずがない。言わんや神一条であるはずもない。その心一つを起こし、その心を真実にすること、それだけが信仰の目的であり、これが四十年祭の本当のささげ物であらねばならぬと信じていたのである。

 だから氏は別科生に向かっても、やたらに布教せよというようなことを口にしなかった。それは、当時の気風が布教へと向かっていたから、そうした反論的な態度になったとも思われるのであるが、本当は誠真実の心をつくることを忘れて布教してみたところで、信仰の世界においては何もできるものではないと信じていたからである。

 外なるものから内なるものへ  そうした方向の転換の中に、氏は「よなおり(世直り)」の意味を見いだそうとしていた。「よなおり」とは、世の中の客観的状態が立て替わるのではなく、一人ひとりの心が立て替わるということであり、この意味で「よなおり」とは、実は「天理教のよなおり」であった。

「よなおり」したらそこに神一条の世界が開け、神意が悟れ、理の働きを如実に受けることができる。そして再び不思議なたすけも続出するであろう。そのために、人間として成すべきことは、ただ一つ、誠真実の心をつくることだけである。これが氏の主眼とした、

  いかにして神の働きを得るか  

ということの内容であった。

 そのために破壊すべきもの、それと戦わねばならぬものとして、二つのものを見いだしていた。一つは、あまりに教会中心的、形式的に堕しつつあった当時の思潮と、もう一つはあまりに理知的、客観的に流れようとしている教理研究の態度であった。

 前者に対しては教会の行き詰まり、困窮を神のてびきとして、その中からぢば中心主義の神意を悟らしめ、また人間思案の枠から引っ張り出して再び混沌の中に投げ込むこと。すなわち、安定した教会生活、教会思想から、どう転ぶか分からない不安の中へ人々を投げ込むことであった。

 後者に対しては、教理はあくまで主観的なものであり、真実の心をつくるためのものであるということを強調し、教理即実行の世界へ突入せしめようとした。

 誠真実の、神に対する関係が神一条ということであると考えていた氏は、神一条の実現を四十年祭の目的としていたことが分かるのである。そしてそれは、氏にとっては復元であったに違いない。

 この実現のためには人間思案および新しい思潮との対決が必要であった。この対決とその推移が、実は四十年祭の主要テーマであったといって差し支えはないであろう。

 

つづきはこちら

天理青年必読「疾風怒濤の時代(終)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著

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連載中の「疾風怒濤の時代」のパート2をお送りします。

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天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

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それでは、パート2スタート。

 

 

五、古い教理・新しい教理

 教祖三十年祭は、おさしづに基づいて神殿普請が行われた。しかし、三十年祭以後はおさしづがない。したがって、四十年祭というのは、直接おさしづによらない最初の年祭であって、ここに三十年祭と四十年祭の根本的な相違がある。

 こうした背景から、相当数の人が教祖四十年祭というのは行われないのではないか、と考えていた事実がある。また世間では、四十年祭はあまりやらないものであった。そうした疑問を一掃するために、教祖四十年祭を大正十五年に執行するという打ち出しが、五年前の大正十年になされたわけであるが、ここに天理教は、教祖の年祭の意義はどこにあるかということを、改めて認識する必要に迫られたとみることができるのである。

 では、四十年祭の意義はどこにあるのか。これは、各教会長に交付された、『四十年祭・奉仕と活動』という小冊子や、全教会長を対象として催された講習会によってうかがうことができる。それによると、「教祖がこの夜に現身をもって道をつけられたのは、世の立て替えをするためであり、その世の立て替えは、年を経てこの四十年祭という旬に、その理が事実として現れてきた。つまり、『よなおり』の旬がきたのである。だから四十年祭を盛大に行うということは、教祖の神霊を慰めて各自が霊救を受ける元となるだけでなく、全世界を立て替える一大動因となる。だから各人は、真実の限りを教祖に捧げねばならぬのである」

 では、教祖の年祭は天理教を信仰する者だけの祭典で、他の世間の人たちとは何ら関係がないのかという疑問に対しては、次のように答えられた。

「大体教祖は、人間に対しては親の理であって、教祖が御苦労くださったその理によって、世界一れつの子供たちがおたすけいただけるのである。だから教祖の年祭は、本来は信者であろうとなかろうと、世界中すべての人が心からお祭り申し上げるべきものであるが、現段階においてはそこまで聞き分ける人がいない。したがって理の上からは兄とせられている者、先立ってこの道についている者が、それらの人々に代わって親である教祖の年祭を行うのである」と。

 これを静かに眺めると、当時の人々は、神意がどこにあるのかということを人間の立場から真剣に探り、それに応えようとしている態度がうかがわれる。そして、こうした自主的な信仰態度は、おさしづがおりなくなってから出てきたものということができる。この時代、初代真柱様は出直され、二代真柱様はいまだ幼少の身という過渡期であったから、余計にそうであったのだろう。

 この過渡期ということが、三十年祭から四十年祭にかけてあらゆる面に現れてくる。一番根本的にいえることは、この時期に至って天理教は、初めて教理の偉大さを発見し、教理を中心に動いてゆく姿勢を持つようになった、ということである。

 思えば、この時代は、人材面でも大きな交替期となった。教祖御在世当時に信仰を始めた人たちがだんだん少なくなり、ようやく二代目の信仰者に差しかかった頃である。例えば、明示二十年という天理教信者にとって忘れ得ぬ年に三十歳であった人は、教祖三十年祭には六十歳、四十年祭には七十歳になる。したがって、明治二十年頃に生まれた人は、三十歳前後になるわけである。

 大正十年一月という時期の本部員で、最高年齢は天保十四年生まれで七十八歳の深谷源次郎氏と増井りん氏の二人であり、最低年齢は三十歳の増野道興氏で、明治二十年の生まれである。直接教祖に接した経験を持たない若き増野氏によって、新しい信仰の息吹が吹き込まれてきたのは、誠に意味深いものが感じられる。

 ところで、教祖御在世当時から信仰を始めた人の侵攻態度は、どんなものであったのだろうか。一例として、深谷源次郎氏が数え八十歳のとき、すなわち出直される一年前、大正十一年の教校別科生に対する教話の一節を掲げて、それを偲ぶこととする。

「人間というものはな、大将になりたい、なりたいと思うているのが多いのや。そこお〝ここが辛抱や、短気は損気〟やと思うては、教祖を頼りにして来さしてもろうた。もう年が明けると八十一になるのやけど、神様のおかげで、目こそ不自由やが達者でいさしてもらうています。これも神様のおかげなら、また皆様のおかげと毎日お礼申しています。

 皆さんはおたすけに出られても、この理をよく聞き分けて、欲を忘れて、教祖に仕える、優しい一筋心になって、人さんを大切にしてあげてくだされ。おたすけするときには少々むごい言葉を出しても、それは心を直すためやからよいが、普段は優しい心で通ってくれ。そして今度生まれて出たら、立派な身柄にうまれてくるのやからな。

 不足をしてはいかんで。よう聞き分けておくれ。皆さんはこうして学校まで入っておられるのやから、少し悪い心遣いをしても、すぐ神様は身上にお知らせ下さる。そしたら、心さえ直しておれば、さづけをせんでも直して下さる。

 皆さんは帰っておたすけに行ったら、死にかかっている病人にあっても〝あかん〟というたらいかんで。そうしたら病人は思案をしよる。心が弱るから助かる病人でも助からんことになるのや。そういうときは〝たすかる〟と言うてやっておくれ。そして心の中で〝静かに眠っておくれ。何とぞ、この者の未来をたすけてくだされ〟と言いつつ、おさづけをするのや。すると病人は心がユッタリとなる。それでたすかってゆくのや。この理をよう聞き分けてな。……」

 四十年経った今でも、心に染み込んでくるような話しぶりである。このようにこの時代は、個人的には深い信仰があり、優れた人格者がまだ多くあった。しかし歴史の目をもってすれば、教会制度の中で信仰が次第に形式化し、固定化しつつあった時代でもあったのである。

 三十年祭は、神殿建築という目標に熱中することができたけれども、その熱狂が冷めると、人々は自分とその周辺を振り返ってみて、あまりに教理が貧困であることに戸惑った。つまり、古き教理から新しい教理へ、時代の動く旬は来たのである。

 

 

六、教理に飢えている

 この時代の空気をもっともよく伝えているのは、増野石次郎(増野道興氏の妹婿)氏が「みちのとも」に書いた一文である。

 「独立前には八字ヒゲの教会長を見なかったが、独立後それが急に増えた。……人間が喜んで小躍りしている間に信仰は次第に固定化していった。独断に走った。世界は自然に従いて来ようとみくびっていた。青年の教養も等閑視した。気がついてみると、従いてくるはずであった青年は従いて来ない。何とか転換を求めねばならぬ時である。…」

 これが大正7年の頃、一青年の心に映った天理教のいつわらざる姿である。この中に感じられるものは、教内青年のひしひしと身に迫ってくる焦燥感である。教会制度が確立されてから、青年に与えられたのは、掃除やら使い走りの雑用が主で、教理を聞きたくても、すぐ、それは理屈だと排され、先達の信仰の中にも世俗的な臭気を感じこそすれ理想は感じられず、悶々としてくるしんでいる状態であった。石次郎氏は、この時代をもって天理教青年の危機であったといっている。彼らは「しっかりするにも、しっかりした仕事はなく」、さりとて布教の第一線に立つ勇気もなく、「だからと云うてしっかりせねばならず、膝を屈して両手を捧げた雑巾の上に幾多無念の涙をこぼしたのである。それも一年二年ならいざしらず、五年十年、なおかつ雑巾の中に神様を拝まねばならんと云うことは、血に燃えた青年求道の士の到底耐え得べくもないところであった」と。

  理想に燃え、血気にはやる青年にとって、もとよりこういう状態は久しく我慢できぬところであった。しかし、ここから脱して真実の信仰に進むためには、やはり順序があり、旬の働きを待たねばならぬ。またそれを人間の立場からいうと、成ってくるところを検討し、未来を洞察し、その方法論まで樹立しなければならない。が、ともかく、新しい天理教、新しい教理、新しい信仰を待望する念は、教内全般に満ちていた。その声を我が事として身に感じていた一人に、増野道興氏がある。大正五年八月号の『みちのとも』に、氏は待望の声を率直に表明した。当時二十六歳である。

「……今更云うまでもなく、教祖の一生は主として内的生活の高調であった。……その当然の結果として総ての形式的なことは否定せらるるに至った。それ故に当時の信仰者は、物質的な要求を排して真実の生活に生きんと極度の努力を注いだのである。

 然るに教祖帰幽後に、天理教会が組織せらるるに至った。此の教会組織は、本教徒の内心への物質の必要を感ぜしめる種を始めて蒔いたのである。その後本教は、一面に於いては真実心の開発にしたがうと共に、その他面に於いて教会組織の完全を望むあまり、幾分形式的に流れたことは事実である。

 殊に教祖帰幽後十五、六年頃から、この形式を尊ぶ思想が非常に優勢になって、爾来日を追うて信仰と直接関係のない種々なる施設方法が天理教の名の下に講ぜられた。これがために天理教が改められたことは非常なもので、最後に独立を認可せらるるに至ったのである。而してつづいて本部建築が落成し、茲に本教の形式は残りなく完成された。……同時に今まで少なからず等閑視されていた信仰に目覚めようとする気運が、人心に領域を広めつつあった。更に之を換言すれば、教祖時代の燃ゆるような信仰を衷心から憧憬するに到ったのである。

 此の思想の転換期に、前管長様は突然死去せられた。一葉落ちててんかの秋を知るご如く、前管長の出直しは本教大勢の変化を暗示されたる神意である。

 教祖の御帰幽後、天理教会が組織せられたる如く、管長の帰幽後、熱烈な信仰の燃ゆるは、自然の経路と見るべきである。……三十年祭の捧げ物は神殿であった。然し本教の内容が神意と相反すれば、神の失望は火を見るより明らかである。かくて三十年祭の捧げ物は、五百万信徒の真実の宝より外はない。……」

 初代真柱のお出直し、(大正三年十二月)という天理教の大ふしに際して、これは天理教の一つのターニングポイントであると感じたのは、増野氏一人ではなかった。何らかの意味で、当時すべての青年が感じたものであった。

 親神に捧げるべき真実の宝は、誰もが心の奥に抱いている。しかし、それが生まれ出されるためには、筋道がいる。それは、真実の信仰に復帰することである。真実の信仰は、この時点においてどこから生まれるのか。それは真実の教理、神一条の教理からしか生まれてこない。

 しかし、三十年祭後の多くの人たちは、それを渇望しながら、しかもそれを得ることができないという苦しみにあえいでいた。もちろん、己の誠真実を尽くし切ることによってわが道を行く布教者も数多くいたが、残念なことに、それらの人は語るべき言葉と系統立った教理を持たなかった。そこに、増野石次郎氏によって代表されるような、青年の焦燥や絶望が生まれる素地があったわけである。

 もちろん、こうした空気を知らない指導者ではなかった。後に大きな指導力を発揮した松村吉太郎氏も十分にそれを察知していた。しかし今までの氏のエネルギーのほとんどは、天理教独立にかけられていて、教理研究の必要に目覚めたのはもう少し年限が経ってからである。

 いずれにせよ、そうした優れた人たちの力をもってしても、新しい時代をリードする教理を生むことができなかった。それは、次の時代に新しく生きるべく位置づけられた人たちが、自ら自主的に創造するべきものであったのである。

 

 

 

七、胎動は始まった

 新しい真実なるものは、一朝一夕に生まれてくるものではない。それは、旬の働きの中で生まれてくるものでしかない。それを人間的にいうならば、条件が熟してくるまではどうにもならないことである。

 ところで、この時代の人々がなぜsのように教理に飢えていたかというと、それは教会で聞かされる教理が、すでに心に訴えるものを失っていたということ、つまり教理も信仰も貧困であった、ということに他ならないのであるが、これを他の面からいうと、この時代になって天理教は、人格や奇跡やいわゆる御守護だけを軸とする信仰から脱却して、教理に根拠を置く信仰へと移行する時期に差しかかったということができる。

 もっともこの時代、教理が幼稚であったことは事実であるにしても、それには理由があったのである。教理は、主として口から口へ伝えられるだけであって、しかもそれがたすかるための筋道を付ける目的のために絞られて、公式化された教理になっていたのである。少し深く突っ込んで教理を知ろう思っても、教理書らしい教理書はほとんどなかった。

『教典』はあったがいわゆる『明治教典』で、これは極めて応法の性格の強いものであり、これをもって親神の真の思惑を悟るには無理があった。

それに決定的なことは、『おふでさき』や『おさしづ』という絶対的な原典が、公刊されていなかったことである。この時代は、熱心な人は『おふでさき』を筆で一首一首丹念に写したのである。それしか方法がなかったのだ。しかし、いざ心に解し得ぬ点を尋ねようとしても、註釈があるわけではなく、納得がゆく答えを出してくれる人はほとんどいなかった。その点からいうと、当時の人たちは誠に恵まれない状態にあったといわなければなるまい。

 では、新しい真実の教理が生まれるべき条件は、どのようにして熟していったのだろうか。

 まず大正時代になって、そろそろ天理教の内に学問を修めた青年が育ってきたことが挙げられる。

 昔の信仰者は、一般に「学問はいらぬ」といって、学問を蔑視する気風があった。これは、信仰というものは心を真実にするための営みであって、学問や知識とは本質的に違うものであるという考え方によるものであるけれども、実際には教会の経済が苦しく食べるのがやっとで、子弟の学資までとても手が回らないという事情が多かったのである。

 この時代の青年は、ほとんどが極度の困窮の中に生い育った。おかゆをすすり、着たきりすずめの粗末な着物を着せられ、たまに蒸し芋のおやつを食べて大きくなった。その胸の中には、なぜこんなに貧乏してまで信仰しなければならないのだろうか、という疑問も当然湧いたことであろう。しかも外に出れば、「あれは天理教の子共や」というので石を投げられたり、ひどい悪口を浴びせられたのである。子どもは無邪気であるとよくいわれるが、なかなか辛らつなことを口にするものだ。その上、親は布教にかかりっきりで、やむを得ぬことながら、家庭は人間的な温かさに乏しいものがあったであろう。そんな中で育ってくれば、誰でも心の中に一首の劣等感や反抗心というものが湧く。

 成年に達して、教会から出て行くものも数多くいた。第一次世界大戦で成金が続出したことなども、よその世界のこととは思われなかったのだろう。気骨のある連中は、大金持ちになろうという志を立てて教会を飛び出した。惜しいことに英才を抱きながら上級学校へも行けず、涙をのんで教会にとどまった人もあっただろう。よく聞いてみると、大抵の人は一度や二度は教会を飛び出して、広い世間で一旗揚げることを夢見たというのが、その頃の実態であった。

 しかし、そうした中にも、静かに時代は動いていった。信仰者の子弟で、大学や専門学校へ進む機会に恵まれた者がぼつぼつ出てきたのである。さらに大正に入ると、その数はぐっと増えてきた。続々と英才が現れ、地方教会の成年も数多く大学の門をくぐった。

 二代真柱様の東大御入学を前にして、こうした姿を見たことは決して偶然ではなく、何か親神の思惑があったと感じざるを得ないのである。

 

 

 

八、因縁果たしの教理

 ところで、新しい教育を受けて育った人たちは、ほとんどが二代目の信仰者であって、それらの人は改めて親神の教えとは何ぞやと問うようになった。これは当然のことで、彼らは道を聞かされることより、自分から道を求める過程の中に、信仰をつかむべく運命づけられたにすぎない。それ故に、教理の本質について憧憬の念が強くなるのも道理であるが、一般の人はどちらかというと、教理に対して受動的であり、人から聞かされるという形をとった。どんな教理が主として聞かされたかというと、「因縁果たしの教理」といわれるものであったようである。

 教祖御在世の頃は、皆どんどんたすかったので、それが有り難いから信仰を始めた人が多かった。しかし、おさしづにもうかがわれるように、「定めたら治まる」というように信仰が変わってきたのである。これは、人間が自主的に信仰してゆく過程に入ったということであるが、その一つの現れが「因縁果たしの教理」であって、因縁を果たせばたすかる、教理がわかってくる、親神の思し召しが悟れてくるという筋道の教理である。これは教理よりも実行を主とした信仰であった。

 しかしこれは、果たせばたすかるとか、信仰とは因縁果たしをすることだというふうにとられる可能性の強い教理でもある。そしてもう一ついうならば、因縁果たしをした後どんな心の状態になるのか、どんな世界になるのか、その展望にいささか欠けるきらいがある。その裏に陽気ぐらしの世界があるのだ、という線が明確ではない。だからどうしても、因縁果たしだけであると信仰が暗くなり、悲愴になる。後に、「泣いて果たすか」という映画ができ、それが四十年祭の気分をぴったり表したようにいわれたが、これは教理の狭さの結果といわねばなるまい。

 ところで、選ばれた少数の高等教育を受けた一人である増野道興氏は、早くから因縁ということに対して一つの独自の見解を持っていた。氏は因縁ということを、潜在意識というように解していた。

 潜在意識というのは、もちろん心理学の言葉である。われわれ人間は、普通表面的な意識にのぼる心遣いは自分でも分かっている。しかし実際は、その奥に巨大な無意識の層がある。これが潜在意識といわれるものである。その潜在意識が実は、人間そのものであるということができる。これは容易に一変することはない。心は変えることはできても、潜在意識は簡単には変えられない。つまり、おていれとかおさわりというような、心のほこりの範囲で起こってくる身上は治るが、因縁の病気といわれているような身上は容易に治るものではない。なぜかというえば、それは潜在意識からくるものだからである。その潜在意識に働きかけ、それを一変せしめること。そこに増野氏は、信仰の根本的な在り方を見たのである。そうでなければ信仰の意味はないと考えたのだ。

 

 

 

九、増野道興氏の方法論

 教祖は、人格の力をもって人間の潜在意識を一変せしめた典型である、と増野氏は見ていた。また、よくおたすけがあがったといわれる昔の信仰者たちは、必ず相当な人格の持ち主であると解した。その人格は、世間でよくいう人格者という意味ではなく、直ちに人間の潜在意識の範囲にまで入り込む力のある人という意味である。

 こうした人格があって初めて、おたすけが成り立ち教理が生きてくる。この人格を離れた教理は死んだ教理であって、そんな教理は説明するにとどまるから、頭に働くだけでいくらやっても潜在意識は変わらず、したがって不思議なたすけは起こらない。

 しかし、ただの人間にすぎない者が、そうした人格を得るのは口でいうほど容易ではないしかし、神がようぼくとして引き寄せた以上、各人は根底においてその力があるはずである。それがないということはない。眠っているだけである。眠っているというのは、常識の範囲で生きているからであって、そんなことではいつまで経っても教会の俗務、人間の煩わしさに追い立てられるばかりである。

 増野氏は実は、信仰の世界に人間的な俗務が多いことに心の底からうんざりしていた。東京から帰って本部に勤めるようになったとき、お屋敷の中においても、それが余りにも多いということにいささか絶望した。与えられた仕事は、本部青年としての使い走りや掃除や雑用ばかりといってよかった。家に戻って勉強するほうが良いと何遍も思ったが、お屋敷はそんな所ではないと心に悟って、何も成すことのない三年間、氏は教庁の事務所で一人瞑想にふけった。心潜めて神一条の世界を思い、おふでさきやおさしづの世界をさまようと、これこそ自分の気持ちがそのまま表現されているとすら思われた。増野氏の教理や思想は、この深い瞑想と沈省の中から生まれたものである。

 しかし氏は、一方において神一条の世界が果たして今日の教会制度の中において実現し得るものなのかどうか、疑問に思っていた。神一条にあこがれればあこがれるほど、天理教の世界は人間くさく、常識的であり、堕落していると感じられてならなかった。教会は困窮にあえぎ、物にとらわれ、神様がおられないような暗く空しい神殿を抱えて、いたずらにその留守番をしている人ばかりが目に付いた。信者は、自分のたすかることばかりを考えていて、二言目には、自分は因縁が悪い徳がないと、泣き言を並べていた。これが神の望んだ信仰の世界であったのであろうか。神は、どこかへ行ってしまわれたのではあるまいか。いや、そうではない。人間の心が死んでいるだけだ、増野氏は考えた。

 そこで氏がとった方法論は、まず第一に各人の中に眠っている神霊というべきものを目覚ますことであった。

 また信仰の根底を、「どうすればたすかるか」という単なる因縁果たしから、一転して「いかにすれば神の働きを得ることができるのか」という方向に換えねばならぬと考えた。

 これは、親神の働きによって各人の信仰や精神が一変することであるが、これを人間の側からすると、その親神の働きを得るためには、人間はその限界を突き破るだけの理を尽くさねばならない。そうでなければ神の働きを得ることはできない、という考え方であった。

 そのために、氏がとった前段階的な方法論は、まず人間の常識的な信仰をぶっつぶすことであり、人間思案では不可能と思われることに挑戦し、その中で神の働きを見ようということであった。こうした考えから、後に敷島大教会長になったとき、教勢倍加を唱えたのである。「いかにして神の働きを得るか」、その一点に極度に焦点を絞ったところに、氏の教理の本質がある。それは極めて主観的な方法論であり、人間的な方法論であり、布教者の方法論である。それ故に多くの人は、これに共鳴したのであるが、同時にそれがあまりに主観的であったが故に、行き詰まることにもなったのである。

 また氏が、神一条の世界が教会制度の中に実現されるものか疑問に思いつつ、なおかつ各人が神一条の信仰をつかむためには、教勢倍加という目標の中に生きねばならなかったという矛盾の中に、四十年祭の教理的な悲劇性が内蔵されていたとみることができる。

 しかし、人間というものは、生きている限り矛盾から脱し切れないものなのかもしれない。

 

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天理青年必読「疾風怒濤の時代(3)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著

どうも、疾風怒濤のコムヨシです。

 

この「疾風怒濤」という名著をご存じない方がかなりいらっしゃるので、文字おこしがてらブログにしちゃおうと思います。

激動の教祖四十年祭を引き起こしたエネルギーはどこから生まれたのか、青年会はいかにして誕生したのか、その時代背景なんかも書かれているので、青年会員必読の書です。

良かったら読んでみて下さいね。

 

はじめに

 教祖四十年祭は未曾有の成典であり、その勢いは、まさに嵐のようであったということがよくいわれる。あの時代のエネルギーは、確かにものすごいものであった。現在では、その当時のことを昔物語にしている人もいるし、またとてもああはいかないと、一種のあきらめや、コンプレックスに陥っている人もいる。

 しかし、当時の人と現在の人が、別に違っているわけではない。また当時の人が一騎当千の勇士ばかりであったというわけでもない。だが、今日的視点から一度振り返って、当時のエネルギーが一体どこから生まれ、どのように展開していったか。その中で人々はどのように成人していったかということを振り返ることはむだなことではないし、むしろ必要なことであろう。そこでこの一遍は、教祖四十年祭の全貌を描くことではなく、そのエネルギーがどこから生まれてきたかということに主眼を置いて、それも人間的な立場から書いてみたいと思う。なお、これはすべて資料に基づいたものであるが、特別なものを除いては、その出典を明示しないことにした。つまり、筆者の心積もりでは、研究論文でもなければ創作でもないというところである。これをまず断っておきたい。

 

一、増野道興氏の洞察

 教祖三十年祭が執行されたのは大正五年一月のことである。三十年祭では、おさしづに基づいて、いわゆる大正普請といわれるものが完成されたのであるが、祭典に先立つ大正三年十二月三十一日には初代真柱のお出直しという大きなふしがあり、翌四年六月には、小川事件なるものが起こって、本部員松村吉太郎が奈良監獄署に収監されるということもあって、何となく意気の上がらないものがあることは避けられなかった。三十年祭の執行される前々日、すなわち大正五年一月二十四日に、増野道興氏は本部准員を命ぜられ、同時に道友社編集主任となった。二十六才という若さであった。いみじくも道興(みちがおこるの意)と名付けられた氏は、本部員増野正兵衛氏の長男であったが、その出生に先立って、ご本席は正兵衛氏に「不思議な子を授けてやると神様がおっしゃっています」と言われたそうである。この道興氏は、「鼓雪」と号して文筆にも素晴らしい活躍をした人であったが、ちょうどこの頃「教勢の推移」と題して、大胆にして深刻な講演をし、天理教の過去、現在、将来について語るところがあった。その中には予言的な洞察が含まれているのであるが、実はこの講演が四十年祭の性格を物語る重要な内容を持っていた。それはおよそ次のようなものであった。

「明示四十一年、天理教は念願の一派独立を成すことができた。これは外面的には天理教の大発展であるには相違ないが、こうしたことが信仰の第一義であるかどうかについては、なお疑問の余地がある。しかし、これをもって、教会制度の基礎が出来上がったことは事実である。

 しかるに数年前から、信徒の心に一つの疑問が起こった。それは、現在のごとき天理教が果たして教祖の理想とせられたものであったかどうかという疑問であり、また、教祖の歩まれた道と現在の教会長、教師の道が一致しているかどうかという疑問である。それが一致していないから、〝教祖にかえれ〟ということが叫ばれ始めた。この声に対して教師は弁解に忙しかった。そこへ社会の動揺とともに、天理教外のいろいろな思想が入ってきた。この間に真の教理は忘れられ、従って不思議なおたすけも少なくなった。そこに苦しみが生じた。そしてその苦しみから何か新しいものを求め始めた。そのとき、管長公のお出直し、松村教正の投獄というふしがあり、何となく気の抜けた三十年祭になってしまった。

 ところで三十年祭後の本教はどこに向かって進んでゆくだろうかというと、おさしづにも示されてあるごとく、海外布教に向かうことになるであろうが、現在の教師のごとき弱卒では到底この大任に耐えることはできない。そこにどうしても神の手入れが始まらねばならないということになる。この神のていれは、従来の誤った信仰、思想に対するていれではあるが、一面、天理教を大きく発展せしめんがための準備である。

 こうしたていれが四、五年あって、そのどん底から再び天理教が勢い立つならば、そのときこと驚天動地の大活動が演ぜられるであろう。この間、本部の中心は動揺するであろう。そしてそれは若き真柱のご成長まで続くであろう。天理教の進路は、本部員会議で諮られることになろう。

 地方教会はこの間、経済問題で苦しむであろう。神殿は完成したから、各教会は内部を整理する必要を生じた。それまで本部中心の思想できたのが、各教会中心の思想になって整理しなければならなくなるであろう。その結果、三十年祭後三、四年にして、直属教会の全盛時代というべきものが来るであろう。それはやむを得ぬことであり、むしろ喜ばしきことである。その日の早く来たり、早く去ることを欲する。しかし教会中心の思想はやがて行き詰まる。窮してくる。しかしこれは真実に達するためには通らねばならない必然的な過程である。そこまで教会が窮していって、再び本部に新しい力が現れる。そして全天理教の思想を一新し、ぢば中心主義に立ち返り、海外布教にその勢力を集中するに至るであろう」と。

 

 

二、大正という時代

 教祖三十年祭が大正五年に執行され、教祖四十年祭は大正十五年に行われた。そこで四十年祭は大正時代の性格を抜きにしては考えられない。ではその大正という時代はどんな時代であったかというと、どうしても忘れることができないのは、第一次世界大戦ということである。この大戦の終わり近い六年の三月にロシア革命が起こり、十一月にはソビエト政府が樹立された。共産主義が単なる理論ではなく、初めて国家という形態の中に定着したのである。これが二十世紀前半の最大の事件であり、これを抜きにして以後の歴史を語ることはできなくなった。 

 この第一次世界大戦では、日本は漁父の利を占め、わずかばかりの参戦で大もうけをした。しかし、実際にもうけて有頂天になったのは、一部の軍需産業や海運業者だけであって、多くの人はこの頃、三倍近くにもはね上がった米価に苦しんでいた。そんなあるとき、富山県の漁民の主婦三百人が蜂起して、資産家や米屋を襲った。米騒動が始まったのである。これはたちまちのうちに全国三府二十二県一道に波及し、各地にストライキが発生した。中でも十年の神戸川崎・三菱造船所のストは十二万八千人に及ぶ大規模なものであった。この大ストライキのあった大正十年の一月に天理教においては、教祖四十年祭を来たる大正十五年一月に行うという打ち出しがなされたのである。

 では、大正十年から十五年に至る五年間というものは、どんな時代であったかということである。世界的にいうならば、十一年にはムッソリーニファシスト内閣が成立した。十二年にはヒトラーミュンヘンで蜂起し、孫文が北伐を決定した。十三年にはレーニンが没し、スターリンが革命政府の指導者となって登場した。第二次世界大戦の立役者が出揃ってきたわけである。

 日本では十四年に治安維持法が成立した。これが日本を戦争に追い込む有力な武器となったのであるが、それに重大な関心を寄せる人はわずかであった。むしろそれより大問題となったのは、十二年九月一日に起こった、かの関東大震災である。このとき、東京はほとんど壊滅した。天理教の教会や信者も多くの被害を受けた。

 前途に希望を失った、虚無的なムードが漂い始めた。街にはモボやモガ(モダンボーイ・モダンガール)と呼ばれるハイカラな連中が発生し、カフェにはエプロンかけの女給が登場してしばしの夢をむさぼらせたが、国民全体としては、すでに理想を喪失し、無力感にさいなまれ始めていた。戦争による好況も大正九年までで、九年末には戦後の恐慌が起こり、軍縮会議の影響もあって、次第に不況に落ち込んでいった。であるから、四十年祭が打ち出された大正十年から、その執行までの五年間は、不安定な人心定まらぬ時代であったといえるようであるし、不景気の時代であったともいえるようである。

 

 

三、教会の困窮

 三十年祭が執行された大正五年から四十年祭が打ち出された大正十年までの期間は、天理教全体からすると、沈静の時代であった。

 この時代の各教会の状態はどうであったかというと、大抵の教会が経済的に非常に苦しんでいた。またどういうことが論議され、問題とされていたかというと、現在のような教会のあり方でよいかどうかということが大きく叫ばれ、同時に、近頃は昔の様な熱心さを失った、おたすけもあがらなくなったということが言われていた。青年はどんなじょうたいであったかというと、なすこともなく、大多数の若者は確信を失いかけていた。概観すると、極めて悲観的な状態にあった。新時代に向かって雄飛すべき生命の通った教理はまだなかった。しかし、こうした暗い状態のそこから、少しずつ芽が吹きかけてきつつある気配も感じられた。

 各教会の状態は、どうであっただろうか。大正五年末で全国の教会数は、四千四百三十三カ所あった。一カ所に百戸の信徒があったとして四十四百万戸であったことになるが、この基礎的計算からすれば、当時は信徒四、五百万と呼称されていたが、それは少し誇大な数字であったものと思われる。しかしそれくらいの人が、一度は天理教の話を聞き、おたすけを受けていたのかもしれない。ただ、教会制度の中の信徒は、それほど多くはなかったものと考えてもよさそうである。

 ところで、この時代の教会は、大部分が借金で苦しんでいた。この苦しみは、内務省秘密訓令による弾圧時代の苦しみとは性格を異にするものであった。一口にいうと、それは本部及び各教会の神殿その他の必要施設の建築と、たくさんの教会入り込み人の生活をどうするかということに伴う経済問題であった。これはすでに明示二十年代から発生し、今後もずっと付きまとう問題であるが、この時代はその懸案がまだ解決の緒についていなかったようである。教会は、多かれ少なかれ、その日の食にも事欠く困窮時代であった。

 各教会は、その打開に全力を挙げていた。しかしそれは容易に果たされなかった。落ちるところまで落ちるより仕方がなかった。人々は苦しみ、懐疑し、迷っていた。教会制度に対する疑問の声も上がってきたし、信仰そのものまで疑う者も少なくなかった。しかし静かに眺めてみると、こうした困窮を通じて、自然的に一つの悟りに到達しつつあったのが当時の状態であった。

 それはどんなことかというと、教会の困窮を救うためには、人間的な思案や人間的な事業によるのではなくして、信仰そのものによらねばダメだ、ということであった。借金を苦にしていては心がいずむばかりであった。事業を興そうとしても、それはすべて失敗した。残るものはやはり心一つ、信仰一つであった。しかもそれは、新たな真実の教理に基づく信仰でなければならなかった。困窮という神のていれによって、ようやく真の信仰へのあこがれが湧き起こってきた。そしてそれは、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際から出た渇望であった。この渇望に対して応えるものが現れたとき、教内は一斉に勇み立つであろうという空気が満ち始めた。

 また教会の困窮は、その教会の力で、その教会の範囲だけでは解決できないものであることが分かってきた。これではいけないというので、今までの方針を一擲(いってき)して、これからは、ぢば中心、親中心の信仰に立ち返ろうと決意した。そしてここからようやく沈滞していた教会も回復の途につき始めた。

 ぢば中心という思想は、要するに、たすけの根元はどこにあるかということへの開眼である。教会は、困窮の果てにおいて、人間的な立場の限界を悟り、ぢば一条に立ち返った。ようやくぢば中心でなければ教会が立っていけないということが自覚されつつあった。しかもこれは、困窮時代にあらゆる人間思案を出し尽くして、しかもうまくいかなかったという体験の上に立っているだけに、いったんそうと決まれば確かなものであった。四十年祭の打ち出しとともに、ぢば中心主義ということが大きく叫ばれたとき、各教会、教師がそれを自分の問題としてしっかり受け止め、それをたすけの声と実感したのも理由のあることであった。むしろその声のかかる旬を待っていたというほうが当たっているであろう。

 

 

四、「おたすけがあがらない」

 教会の困窮は一面、不思議なおたすけが少なくなったということである。この時代には、おたすけがあがらなくなった、ということがよく言われていた。事実、明治二十年代、三十年代に見られたような不思議なおたすけは少なくなっていた。そこから、まずいんねん果たしをするのが信仰であるという教理も生まれてきたわけであるが、神の守護というものが、この時代に少なくなってきたというわけではない。事実、東本の初代会長が活躍したのもこの時代であった。これは、神は人間の心に乗って働くのである、というお言葉の実証にすぎないのであるが、ともかく、なぜおたすけがあがらなくなってきたのかということについて、この頃盛んに論じられた。

 教祖時代の信仰に生きる板倉槌三郎本部員は、それを次のように指摘した。これは四十年祭後のことであるが、教祖時代の信仰からの比較であるから、その主旨は当然この時代に大しても適用性を持つものと考えられる。

「お道は皆一戸の信徒もないところから四方八方に流れて、年限経って教会を願うようになったのである。

 教会を頂くと所長様や会長様である。自分の力でなったのやない。神様のお力、御教祖様のお力でならしてもろうたんだ。世界でも、〝神官社壇の鼠〟ということがある。つまり氏子から上がったお金や品物を下げて自分が食って通るからであるが、天理教の宣教所長が信徒から上がったものを食って、社壇の鼠になっているようではどうもならん。所長が社壇の鼠になって神様をダシにおまんま食べているようでは神様のために働いているのやない。自分のために働いているのじゃ。そんなものは何の役にも立たない。飯食って、くそたれて、つまり、人糞製造機じゃ。どうも人間というものは欲深い。少しよくなると増長する。その慢心が邪魔になる。この慢心を意見してやろうと、神様はおたすけがあがらないようになさる。

 今の教師は信徒が十名二十名できたら講元様、教会こしらえて所長様、先生然として上から下を向いている。御教祖存命中とは全然精神が違う。昔の真実と今の真実は比較にならん。その頃は下から上へ上っていったが、今は上から下を向きたがる。

 今日の道は、いささか道に働いて、苦労の道をちょっと通って、早く大先生になりたい、何でも早く上へ上がりたいと、水に浮いている浮草のように根が定まらぬから落ちるより他に道がない。どうでも自分の真実の心の種を蒔きおろすことが肝要や。そうすればおたすけもあがる。御利益が現れる。それで片っ端から人々は信徒になる。改心しよる。牡丹餅持ってこい、銭持ってこい、酒もってこいと言わいでも、一人で寄ってくる。

 今日はどうも名称に丸もたれや。苦労を嫌い、不自由を嫌うて、所長然、会長然、先生然と構えて、替盆で飯食わせにゃ不足を言う。種蒔くことを知らずに、苦労せずに、徳とることばかり考えている。それで親神様の御守護がない。そんなものに御守護があったら、増長して死んでしまわにゃならん。」

 これはつまり、教会制度の中に安住しているからおたすけがあがらなくなったというわけである。そしてこのおたすけがあがらなくなったのは、心がたかくなったからであり、あがらなくなったというのが実は親神の守護なのであって、これは要するに、もっと心をどんと落として、真実の種まきをすることだけを楽しみとするより他ないという主旨である。

 しかし、こうした教祖時代の信仰に生きる人も、この時代は少なくなっていた。またあったとしても、組織化されてきてからというものは、直接そうして人と膝をつき合わせるという機会も少なくなっていた。それにすでに教祖時代に、そのままには戻れないというのが歴史の法則である。それ故に、人々は新しい教理を求めた。この新しい教理は、増野道興氏によって代表的に現れてくることになった。

 増野氏は、このおたすけがあがらなくなったということに対して、次のように考えていた。

「今日おたすけがあがらなくなったのは、つまり信仰が常識化したからである。教理を自分の頭でこなして、説明するようになったからである。教理を説明していては、人に話すのではなく、自分に話しているのである。そんなことで、相手の心が変わり、生活が変わり、たすかるということは起こるはずがない。これは結局、教師が本当の神をつかんでいないからである。現在の信仰者が二代目になりつつあるのだからそれも仕方ない。

 では、どうすれば神がつかめるかということであるが、これには二つの道がある。一つは偉大なる人格に接することであるが、教祖が再びそのままの姿でこの世に現れてくださるということがない以上、それは望めない。第二は、神を知る機会が与えられるということである。もし与えられないとすれば、自らの手でそれをつくり出すより他はない。大体、信仰は本来非合理なものであり、言うならば冒険である。それ故、常識では不可能であり、無茶だという自体の中に自分を投げ込み、捨て身になってその中に没入することによって、その機会をつかむということになる。その結果がどう出るかは人間には分からぬが、信仰とは、そうした中で自分を根底からつくり直すことに他ならない。

 これは主観的な面からの見方であるが、客観的な面からすると、もう少し違った見方が成立する。客観的にいうならば、不思議なたすけが少なくなるというのは時代の必然である。なぜなら、今日の天理教は、高山布教、海外布教を目指している。そこにはどうしても教理を整備する必要が出てくる。そうして教理と信仰が次第に分離するに至る。だから、今後の天理教の行方には、不思議なたすけがなくなるということは覚悟しておかねばならない。」

 増野氏の言わんとするところは、今後の天理教は、病たすけというより、その元である心たすけという方向に進むということであり、おたすけの結果がどうだというより、まず自らが神をつかむということが急務であるとするのであった。教会制度の中に埋没して姿を見失った神を、再び自分たち一人ひとりの問題としてつかみ直そうというのであった。増野氏の四十年祭に対する考えは、実はこういうところにあったのである。

 

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天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

大昔にタイムスリップしたら、過去の世界で大成功を収められるか?

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もしも戻れるなら、あとちょっとで家に着くという直前でウ◯コを漏らしてしまった、あの頃の数分前に戻って、公園のトイレでゆっくりもよおしたい、

 

こむよしです。

 

最近、起業家さんだったり、コンサルタントさんだったり、ビジネスで成功されている方々とSNSで一方的に繋がりをもてるようになって、そういった方々のメルマガを読んだり、記事なんかを見ていて、お金をまわす仕組みづくりだったり、世の中の動きの見方だったりを勉強してるわけなんですが、

 

さっき、お昼ご飯を食べながら、ふとこんなことを思ったんです。

 

例えばいま、日本の生活水準より下の水準で生活をしている人達(ボクを含めてw)が、江戸時代とかにタイムスリップしたらどうなるんだろうかと。思ったんです。

 

どういうことかというと

 

現代では低所得なボクですけど、楽に暮らす知識は圧倒的に上な訳です。

それを江戸時代で披露したらどうなるのかなって思ったんです。

 

よく、ドラマや映画なんかでもそういうのありますけど、ネックになるのは「未来を変えてはいけない」っていう縛りなんですね。

 

今回は大胆にも、その縛りを外して考えてみようと思います。

 

 

未来にはもう戻らない。俺はここで暮らす宣言。

「俺はここで暮らす」宣言しちゃいましょう。

未来なんて糞食らえ。未来は俺が作る!それくらいの意気込みでいきましょう。せっかくですから。

 

当時と今で、何が劇的に違うかと考えた時、それはやっぱり

 

電気じゃないですかね。

 

なので、エジソンより先に電気を発明しちゃいましょう。電気の作り方わかんないですけど。

 

テレビも作って、冷蔵庫も作って、洗濯機も作って家事を楽チンにしちゃいましょう。

 

石油を掘り当てて、石油製品をじゃんじゃん作って厳しい冬を乗り越えましょう。

 

これでボクは歴史に残る発明家、実業家として後世に名を残せる、でしょうか。

 

 

精神レベルに見合った環境。それが時代。

江戸時代は、戦こそほとんどなかったにしろ、それでも今の時代よりも、人を殺す事がさほど珍しいことではなかった時代ですよね。

時代というのはそういうもののようです。

 

人を平気で殺せる様な雰囲気の世の中で、電気や石油製品が、当時の世の中の暮らしをよくするために使われるかどうか、非常に疑問ですよね。

 

ノーベル賞で有名なノーベルさんは、ダイナマイトを発明しました。よね?

確か掘削作業を楽にさせるためにダイナマイトを発明したのに、そのダイナマイトは戦争に使われてしまって、とても悲しい思いをした、よね?

 

人間はその未熟さから、幾度となく過ちを犯し、失敗から成功を学び、それを繰り返して、人間らしさを手に入れてきました。

 

いまもまだ、世界のあちこちで戦争が絶えず、日本も隣国のミサイルに怯えながら暮らさなければならない状況にあります。

 

それはとても辛く悲しいことですが、この時代を生きているボクたちが解決しなければならないことなのは間違いない事実だと思います。

 

 

神様の役割と人間の役割

ボクは天理教の神様を信仰しています。

神様は絶対にいると信じています。

 

神様はどんなこともできる絶対的な存在。

神様は人間を守って下さる存在。

 

じゃあ何故神様は人間に戦争をさせるんですか。

どうして世界は平和にならないんですか。

 

ぼくがここに教理的な答えを書いたからといってなんの解決にもなりませんが

ただ、一つ言える事は、神様には神様の役割があるということ。

 

この世界は、今を生きるボクたち人間一人ひとりの精神ベレルが反映されているということ。

 

ボクたち人間の役割は、その精神レベルを上げていくことでしょう。

 

江戸時代に電気も水道もガスもなかったのは、当時の人達が、それらの便利なものを豊かに使えるだけの精神レベルをもってなかったからなんです。

 

信仰しているとかしていないとかではなく、

 

人間にとって一番大切な事は、この精神レベルの向上だと思うんですね。

 

信仰って言うのは、それをサポートするためのツールでしかない。

 

信仰という形に固執するあまり、かえって精神レベルを下げる事にもなりかねません。そんな人がわりと多くいらっしゃいます。本当に残念な事です。

 

でも、その信仰のおかげでボクはかけがえのないものや人をたくさん手に入れられました。

 

なんでも使いようですよね。

 

今日も一日陽気ぐらし!

 

 

「教会 DE ハロウィン」開催決定!!

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カボチャは、なきゃないでいいっていうスタンス、コムヨシです。

 

ブログを始めてからというもの、自分の脳みその中にあるものをアウトプットする機会が増えたおかげか、自分の考えとか意見、思いっていうのがハッキリしてきた気がしています。

 

今までは、何となく漠然としていたので、何かしらの物事に当たっていくときに、自分というものがいつもブレていたので、どうしても判断スピードが鈍くなってしまったり、「これでよかったのかな…」と自分の決定に自信を持てなかったりっていうことが多かったんですね。それ自体は悪い事ではないんですけど、ボクはどちらかというと一般よりは考えが尖っている方だと自覚しているので、いざとなると尖った意見で自分自身を進めて行けていない事がイヤだったんです。

 

でも、アウトプットをすることによって、漠然としていたものが勝手に整理されていくので、事に当たるときの判断基準が明確になり、そのスピードも確実にアップしているように思います。

 

例えて言うなら、机の上のノートや資料がキレイに整理整頓されてる状態です。

 

今まではぶっちらかってどこに何があるのかわからなかったですからね。

 

でも、ボクの性格的に、机の上がキレイだと気持ち良いんだけど何だか落ち着かないんですよね。

 

何かを置きたくなっちゃうんです。

 

でも、それは良い事だと思っていて、アウトプットされて頭の中が整理されていくと、新しい何かをインプットしたくなるんです。

 

 

と、言う訳で

 

 

教会でハロウィンパーティーを開催する事にしました。

 

 

ダイソーの販売戦略にまんまとハマった。

9月の始め頃だったでしょうか、近所のイオンで妻とデートしてたんです。手はつないでません。

 

食品館とかの入り口から入ったんですけど、もうすっかり飾りなんかが秋っぽくなっちゃってて、ハロウィンとかも飾ったりなんかしちゃってたわけです。

 

それを横目に見ながら、「もうハロウィンなんだね〜」とか言いながら2人で歩いてたわけです。手はつないでません。

 

とりあえず、今回の目的地はダイソーだったので、美味しそうなケーキや、特売らしき肉や魚には全く目もくれず、ひたすら真っ直ぐにダイソーに向かってたわけです。手はつないでません。

 

で、ダイソーもやっぱりハロウィン祭りやっちゃってるわけです。

 

毎年見る光景だし、特に真新しい見た目でもなんでもなかったんですけど、なんかひらめいちゃったわけです。

 

「あ、ハロウィンやろう」

 

こうなっちゃったわけです。

 

 

教会に新しい付加価値をつけたい

ボク自身に新しい付加価値をつけたくて、それを見つけるためにとりあえずブログを始めたわけですが、同時に天理教の教会にも付加価値をつけたいって思ってました。

 

2ヶ月前に青年会総会に合わせてビアガーデンをやりましたが、あれも一つの価値として、来てくれた人に喜んでもらえる形になったんじゃないかと思っています。

 

みんながもっとワクワクするような、ビックリするような、そんな教会にしていきたいって思ってるんですが、今までは考えが漠然としすぎていたので、一つの形として出せなかったというか、出し方がわからなかったというか、ひらめかなかったんですね。

 

でも、冒頭でも書いたように、アウトプットを続ける中で自分の思考回路が整理整頓されて、新しいものを取り込める準備ができた状態でハロウィンコーナーを見たので、今までと違う思考回路で、カボチャを認識することができたんだろうと思います。

 

でも、正直その時点では、教会でハロウィンをやるっていうことにあまり自信はもてていませんでした。

 

なので、教会の仲間のグループLINEで問いかけてみたんです。

 

そしたらすごい!

未だかつてないくらいにLINEが盛り上がって、みんながすごく良い反応をみせてくれて、楽しみにしてくれているらしいことがわかりました。

 

どんな展開になるのか全くわかりませんが、楽しくしかなりません。

 

というわけで、9/30(土)19:00〜

教会 DE ハロウィン開催です!!

 

 

気になる内容は?

結局、大した話し合いも出来なかったので、とりあえず今回はボクの頭の中にあるイメージを元に進めていく感じになりますが、

とりあえず決まっていることは、前回の「教会ビアガーデン」のように、

  • 砂肝の焼き鳥
  • コムヨシピザ(BBQコンロで焼くピザドーム買ってきたぜ!)
  • 生ビール

を、メインとした酔っぱらいコーナーを設置。そして

  • 大人も子共も仮装大会!
  • 宝はどこだ!教会 DE 宝探しゲーム!
  • 教会お泊まり会!

という感じになっています。

 

「大人も仮装するの?」

という声が聞こえてきそうですが、もちろんです。

 

大人が全力で楽しむことによって、子どもたちは更にその雰囲気を楽しむ事ができるんです。

子どもはダメと言われることをやりたい生き物なんです。

大人しかダメと言われることをやりたい生き物なんです。

 

大人にしか出せない楽しい雰囲気を出す事で、この企画は更に成長することができるでしょう!

 

と、言っても、ちょっとした衣装を着るだけとか、ヒゲを付けるだけとか、かぶり物を一つかぶるっていうだけでも全然オッケーです。

 

とにかく、子どもがしらけた思いをしないような雰囲気を作れればいいのかなっていう感じです。あまり深くは考えないで下さいねww

 

というわけで、みなさんのご参加を心からお待ちしております!!

 

 

詳細情報

【日時】

9月30日(土)

19:00〜

 

【場所】

天理教百石分教会

 

【内容】

仮装大会

宝探しゲーム

お泊まり会

酔っぱらいコーナー

 

【参加費】

大人 2000円(高校生以上)

子供  500円(中学生以下)

幼児    0円

仕方ないからって諦めてませんか?そのシステム、まずは疑ってかかれ。自分が納得できることをやろう。

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こんにちは、信じられぬと嘆くより、人を信じて傷つくほうがいい、コムヨシです。

いま、ボクが生業としている天理教のお仕事の中で、いくつかのプロジェクトに携わっているんですが、企画的にも運営的にも大分限界にきていると感じます。そのプロジェクトに限らず、天理教全体の雰囲気として完全に限界にきていると感じています。

それが何故なのか、どうしたらいいのかっていうのをまとめてみました。

 

やりたくないことを一生懸命する世の中

プロジェクトの企画とかを会議していても、まったく盛り上がらないというか、そもそも人が集まらなかったり。

会議をする中で、毎回感じるのは、やりたくない事なのに

「今までそうだったから」

「そういうもんだから」

「仕方ないんだから」

言葉には出ないけど、そういう雰囲気をすごく感じていて、なんでいつもこんな不毛な議論をしなければならないんだろうと感じてきました。なんでこんな会議に出なきゃいけないんだろうと感じてきました。

でも、よく考えたら、そんな会議に毎度毎度出席しているボクが一番

「今までそうだったから」

「そういうもんだから」

「仕方ないんだから」

を実践していたのかもしれません。

ただ、このままこの組織を離れたら、自分が負けたみたいで悔しいという気持ちもありました。自分が居続ける事で何かが変わるなら…という思いもあったのかもしれません。

 

そのシステムおかしくない?

会議という場では、なあなあな雰囲気になっているけど、いざ一対一で飲んだりすると、だいたいみんな同じ様なことを感じていたりもします。

結局のところ

「今までそうだったから」

「そういうもんだから」

「仕方ないんだから」

っていうことなんだろうと思います。

それと、おかしいとは思っているけどどうしたらいいのか分からない。

 

ブログと出会ってから、好きなことをやって他者へ貢献するという生き方を知り、ボクもそれをやりたいと思って、とりあえずブログを始めた訳なんですが、なぜ天理教の組織ではやりたい事がやれないのかずっと疑問というか、答えがわからなかったんです。

 

天理教の中にある色々な組織(青年会、婦人会、教区、支部、大教会 etc)を組織している人間っていうのは、そもそも何かがやりたくて集まっているメンバーではないんです。

 

どんな人達で組織されているかというと、語弊を恐れずに言うと、教会の力関係で極めて上層部の人達で組織されているんです。大教会なんかは特にそうですよね。

そして青年会は大教会を組織している上層部の子ども達で組織されている。

そこには、本人の意思も何も関係なく、単なる立場だけで集められているといって過言ではないでしょう。

 

思いを同じくしている訳でもなければ、その組織で何かやりたい事があって入会しているわけでもないんですね。

かくいうボクもそうです。建前上、大義名分はあるにせよ、「相応の年齢だから」「それなりの教会の息子だから」それだけです。

ボクの何か特別な魅力を買われて誘われた訳ではないし、ボクもその組織に何か魅力があって入会したわけでもないんですね。

 

「みんなが何となくやってることに疑問をもつ」

Hi-Standardというバンドをご存知でしょうか。

ボクはそのバンドに中学生の頃出会い、今以てハイスタ以上のバンドとは巡り会えていません。それくらい大好きで尊敬するバンドです。

そのバンドがバンド史上最大のピークを迎えた最中に突然の活動休止を発表します。

その後、紆余曲折を経ますが2011年の震災を機に電撃復活します。

そして昨年10月SNS全盛のこの時代に逆行して、完全告知無しでいきなり店頭販売します。

その手法に「さすがハイスタ」「センスがある」などの声が後をたちませんでしたが、本人達は「ここまで騒ぎになるとは思ってもなかった」とあっさり。

そして今秋10月4日には満を持してニューアルバムをリリースすることが決定しています。

昨日、リリースに先駆けて彼らのインタビューが公開されました。

 

インタビューの冒頭、記者から改めてゲリラ販売の件についての言及を促されていますが、彼らはやはり自分たちが特別な事をやったという意識はないとした上で、

「みんなが何となくやっていることに疑問をもってた」

と言います。

ボク、この感覚が今の天理教に最も必要な感覚なんじゃないかなって思うんです。

やりたくもない事をどうやったら楽しく出来る様になるかっていうことばかりで、多少のごまかしは出来るのかもしれないけど、根本的な問題解決にはなっていないんです。

やりたくないことは、どこまでいってもやりたくないもんなんです。それをどうやったら出来る様になるかっていうことばっかり考えているから、会議も盛り上がらないし、人も集まらないと思うんです。

 

思い切って、何もかも白紙に戻したらいいんです。

組織を解散してみるっていうのも一つ。

 

本当にやりたいことがある人達は言われなくても勝手に行動するし、なんとかしようする人には必ず似た考えをもった人との出会いがある。

 

その方が絶対楽しいに決まってますよね。

 

天理教が輝きを取り戻せれば、世の中はもっともっと輝くはずなんです。

 

どうせやるなら、失敗するかもしれないし、誰かに怒られるかもしれないけれど、自分がやりたくないことやって、モヤモヤしたまま暮らすより、自分が納得できることをやるほうが人生豊かに決まってるから。

 

そのシステム、まずは疑ってかかりましょう。これぞパンクスのDNAです。

 

今日も一日、陽気ぐらし!