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現役の天理教教会長による、ぶっ飛びな天理教のお話や、だらけきった信仰体験談を通して、アナタのココロの筋力アップをサポートします。

天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著

どうも、疾風怒濤のコムヨシです。

 

この「疾風怒濤」という名著をご存じない方がかなりいらっしゃるので、文字おこしがてらブログにしちゃおうと思います。

激動の教祖四十年祭を引き起こしたエネルギーはどこから生まれたのか、青年会はいかにして誕生したのか、その時代背景なんかも書かれているので、青年会員必読の書です。

良かったら読んでみて下さいね。

 

はじめに

 教祖四十年祭は未曾有の成典であり、その勢いは、まさに嵐のようであったということがよくいわれる。あの時代のエネルギーは、確かにものすごいものであった。現在では、その当時のことを昔物語にしている人もいるし、またとてもああはいかないと、一種のあきらめや、コンプレックスに陥っている人もいる。

 しかし、当時の人と現在の人が、別に違っているわけではない。また当時の人が一騎当千の勇士ばかりであったというわけでもない。だが、今日的視点から一度振り返って、当時のエネルギーが一体どこから生まれ、どのように展開していったか。その中で人々はどのように成人していったかということを振り返ることはむだなことではないし、むしろ必要なことであろう。そこでこの一遍は、教祖四十年祭の全貌を描くことではなく、そのエネルギーがどこから生まれてきたかということに主眼を置いて、それも人間的な立場から書いてみたいと思う。なお、これはすべて資料に基づいたものであるが、特別なものを除いては、その出典を明示しないことにした。つまり、筆者の心積もりでは、研究論文でもなければ創作でもないというところである。これをまず断っておきたい。

 

一、増野道興氏の洞察

 教祖三十年祭が執行されたのは大正五年一月のことである。三十年祭では、おさしづに基づいて、いわゆる大正普請といわれるものが完成されたのであるが、祭典に先立つ大正三年十二月三十一日には初代真柱のお出直しという大きなふしがあり、翌四年六月には、小川事件なるものが起こって、本部員松村吉太郎が奈良監獄署に収監されるということもあって、何となく意気の上がらないものがあることは避けられなかった。三十年祭の執行される前々日、すなわち大正五年一月二十四日に、増野道興氏は本部准員を命ぜられ、同時に道友社編集主任となった。二十六才という若さであった。いみじくも道興(みちがおこるの意)と名付けられた氏は、本部員増野正兵衛氏の長男であったが、その出生に先立って、ご本席は正兵衛氏に「不思議な子を授けてやると神様がおっしゃっています」と言われたそうである。この道興氏は、「鼓雪」と号して文筆にも素晴らしい活躍をした人であったが、ちょうどこの頃「教勢の推移」と題して、大胆にして深刻な講演をし、天理教の過去、現在、将来について語るところがあった。その中には予言的な洞察が含まれているのであるが、実はこの講演が四十年祭の性格を物語る重要な内容を持っていた。それはおよそ次のようなものであった。

「明示四十一年、天理教は念願の一派独立を成すことができた。これは外面的には天理教の大発展であるには相違ないが、こうしたことが信仰の第一義であるかどうかについては、なお疑問の余地がある。しかし、これをもって、教会制度の基礎が出来上がったことは事実である。

 しかるに数年前から、信徒の心に一つの疑問が起こった。それは、現在のごとき天理教が果たして教祖の理想とせられたものであったかどうかという疑問であり、また、教祖の歩まれた道と現在の教会長、教師の道が一致しているかどうかという疑問である。それが一致していないから、〝教祖にかえれ〟ということが叫ばれ始めた。この声に対して教師は弁解に忙しかった。そこへ社会の動揺とともに、天理教外のいろいろな思想が入ってきた。この間に真の教理は忘れられ、従って不思議なおたすけも少なくなった。そこに苦しみが生じた。そしてその苦しみから何か新しいものを求め始めた。そのとき、管長公のお出直し、松村教正の投獄というふしがあり、何となく気の抜けた三十年祭になってしまった。

 ところで三十年祭後の本教はどこに向かって進んでゆくだろうかというと、おさしづにも示されてあるごとく、海外布教に向かうことになるであろうが、現在の教師のごとき弱卒では到底この大任に耐えることはできない。そこにどうしても神の手入れが始まらねばならないということになる。この神のていれは、従来の誤った信仰、思想に対するていれではあるが、一面、天理教を大きく発展せしめんがための準備である。

 こうしたていれが四、五年あって、そのどん底から再び天理教が勢い立つならば、そのときこと驚天動地の大活動が演ぜられるであろう。この間、本部の中心は動揺するであろう。そしてそれは若き真柱のご成長まで続くであろう。天理教の進路は、本部員会議で諮られることになろう。

 地方教会はこの間、経済問題で苦しむであろう。神殿は完成したから、各教会は内部を整理する必要を生じた。それまで本部中心の思想できたのが、各教会中心の思想になって整理しなければならなくなるであろう。その結果、三十年祭後三、四年にして、直属教会の全盛時代というべきものが来るであろう。それはやむを得ぬことであり、むしろ喜ばしきことである。その日の早く来たり、早く去ることを欲する。しかし教会中心の思想はやがて行き詰まる。窮してくる。しかしこれは真実に達するためには通らねばならない必然的な過程である。そこまで教会が窮していって、再び本部に新しい力が現れる。そして全天理教の思想を一新し、ぢば中心主義に立ち返り、海外布教にその勢力を集中するに至るであろう」と。

 

 

二、大正という時代

 教祖三十年祭が大正五年に執行され、教祖四十年祭は大正十五年に行われた。そこで四十年祭は大正時代の性格を抜きにしては考えられない。ではその大正という時代はどんな時代であったかというと、どうしても忘れることができないのは、第一次世界大戦ということである。この大戦の終わり近い六年の三月にロシア革命が起こり、十一月にはソビエト政府が樹立された。共産主義が単なる理論ではなく、初めて国家という形態の中に定着したのである。これが二十世紀前半の最大の事件であり、これを抜きにして以後の歴史を語ることはできなくなった。 

 この第一次世界大戦では、日本は漁父の利を占め、わずかばかりの参戦で大もうけをした。しかし、実際にもうけて有頂天になったのは、一部の軍需産業や海運業者だけであって、多くの人はこの頃、三倍近くにもはね上がった米価に苦しんでいた。そんなあるとき、富山県の漁民の主婦三百人が蜂起して、資産家や米屋を襲った。米騒動が始まったのである。これはたちまちのうちに全国三府二十二県一道に波及し、各地にストライキが発生した。中でも十年の神戸川崎・三菱造船所のストは十二万八千人に及ぶ大規模なものであった。この大ストライキのあった大正十年の一月に天理教においては、教祖四十年祭を来たる大正十五年一月に行うという打ち出しがなされたのである。

 では、大正十年から十五年に至る五年間というものは、どんな時代であったかということである。世界的にいうならば、十一年にはムッソリーニファシスト内閣が成立した。十二年にはヒトラーミュンヘンで蜂起し、孫文が北伐を決定した。十三年にはレーニンが没し、スターリンが革命政府の指導者となって登場した。第二次世界大戦の立役者が出揃ってきたわけである。

 日本では十四年に治安維持法が成立した。これが日本を戦争に追い込む有力な武器となったのであるが、それに重大な関心を寄せる人はわずかであった。むしろそれより大問題となったのは、十二年九月一日に起こった、かの関東大震災である。このとき、東京はほとんど壊滅した。天理教の教会や信者も多くの被害を受けた。

 前途に希望を失った、虚無的なムードが漂い始めた。街にはモボやモガ(モダンボーイ・モダンガール)と呼ばれるハイカラな連中が発生し、カフェにはエプロンかけの女給が登場してしばしの夢をむさぼらせたが、国民全体としては、すでに理想を喪失し、無力感にさいなまれ始めていた。戦争による好況も大正九年までで、九年末には戦後の恐慌が起こり、軍縮会議の影響もあって、次第に不況に落ち込んでいった。であるから、四十年祭が打ち出された大正十年から、その執行までの五年間は、不安定な人心定まらぬ時代であったといえるようであるし、不景気の時代であったともいえるようである。

 

 

三、教会の困窮

 三十年祭が執行された大正五年から四十年祭が打ち出された大正十年までの期間は、天理教全体からすると、沈静の時代であった。

 この時代の各教会の状態はどうであったかというと、大抵の教会が経済的に非常に苦しんでいた。またどういうことが論議され、問題とされていたかというと、現在のような教会のあり方でよいかどうかということが大きく叫ばれ、同時に、近頃は昔の様な熱心さを失った、おたすけもあがらなくなったということが言われていた。青年はどんなじょうたいであったかというと、なすこともなく、大多数の若者は確信を失いかけていた。概観すると、極めて悲観的な状態にあった。新時代に向かって雄飛すべき生命の通った教理はまだなかった。しかし、こうした暗い状態のそこから、少しずつ芽が吹きかけてきつつある気配も感じられた。

 各教会の状態は、どうであっただろうか。大正五年末で全国の教会数は、四千四百三十三カ所あった。一カ所に百戸の信徒があったとして四十四百万戸であったことになるが、この基礎的計算からすれば、当時は信徒四、五百万と呼称されていたが、それは少し誇大な数字であったものと思われる。しかしそれくらいの人が、一度は天理教の話を聞き、おたすけを受けていたのかもしれない。ただ、教会制度の中の信徒は、それほど多くはなかったものと考えてもよさそうである。

 ところで、この時代の教会は、大部分が借金で苦しんでいた。この苦しみは、内務省秘密訓令による弾圧時代の苦しみとは性格を異にするものであった。一口にいうと、それは本部及び各教会の神殿その他の必要施設の建築と、たくさんの教会入り込み人の生活をどうするかということに伴う経済問題であった。これはすでに明示二十年代から発生し、今後もずっと付きまとう問題であるが、この時代はその懸案がまだ解決の緒についていなかったようである。教会は、多かれ少なかれ、その日の食にも事欠く困窮時代であった。

 各教会は、その打開に全力を挙げていた。しかしそれは容易に果たされなかった。落ちるところまで落ちるより仕方がなかった。人々は苦しみ、懐疑し、迷っていた。教会制度に対する疑問の声も上がってきたし、信仰そのものまで疑う者も少なくなかった。しかし静かに眺めてみると、こうした困窮を通じて、自然的に一つの悟りに到達しつつあったのが当時の状態であった。

 それはどんなことかというと、教会の困窮を救うためには、人間的な思案や人間的な事業によるのではなくして、信仰そのものによらねばダメだ、ということであった。借金を苦にしていては心がいずむばかりであった。事業を興そうとしても、それはすべて失敗した。残るものはやはり心一つ、信仰一つであった。しかもそれは、新たな真実の教理に基づく信仰でなければならなかった。困窮という神のていれによって、ようやく真の信仰へのあこがれが湧き起こってきた。そしてそれは、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際から出た渇望であった。この渇望に対して応えるものが現れたとき、教内は一斉に勇み立つであろうという空気が満ち始めた。

 また教会の困窮は、その教会の力で、その教会の範囲だけでは解決できないものであることが分かってきた。これではいけないというので、今までの方針を一擲(いってき)して、これからは、ぢば中心、親中心の信仰に立ち返ろうと決意した。そしてここからようやく沈滞していた教会も回復の途につき始めた。

 ぢば中心という思想は、要するに、たすけの根元はどこにあるかということへの開眼である。教会は、困窮の果てにおいて、人間的な立場の限界を悟り、ぢば一条に立ち返った。ようやくぢば中心でなければ教会が立っていけないということが自覚されつつあった。しかもこれは、困窮時代にあらゆる人間思案を出し尽くして、しかもうまくいかなかったという体験の上に立っているだけに、いったんそうと決まれば確かなものであった。四十年祭の打ち出しとともに、ぢば中心主義ということが大きく叫ばれたとき、各教会、教師がそれを自分の問題としてしっかり受け止め、それをたすけの声と実感したのも理由のあることであった。むしろその声のかかる旬を待っていたというほうが当たっているであろう。

 

 

四、「おたすけがあがらない」

 教会の困窮は一面、不思議なおたすけが少なくなったということである。この時代には、おたすけがあがらなくなった、ということがよく言われていた。事実、明治二十年代、三十年代に見られたような不思議なおたすけは少なくなっていた。そこから、まずいんねん果たしをするのが信仰であるという教理も生まれてきたわけであるが、神の守護というものが、この時代に少なくなってきたというわけではない。事実、東本の初代会長が活躍したのもこの時代であった。これは、神は人間の心に乗って働くのである、というお言葉の実証にすぎないのであるが、ともかく、なぜおたすけがあがらなくなってきたのかということについて、この頃盛んに論じられた。

 教祖時代の信仰に生きる板倉槌三郎本部員は、それを次のように指摘した。これは四十年祭後のことであるが、教祖時代の信仰からの比較であるから、その主旨は当然この時代に大しても適用性を持つものと考えられる。

「お道は皆一戸の信徒もないところから四方八方に流れて、年限経って教会を願うようになったのである。

 教会を頂くと所長様や会長様である。自分の力でなったのやない。神様のお力、御教祖様のお力でならしてもろうたんだ。世界でも、〝神官社壇の鼠〟ということがある。つまり氏子から上がったお金や品物を下げて自分が食って通るからであるが、天理教の宣教所長が信徒から上がったものを食って、社壇の鼠になっているようではどうもならん。所長が社壇の鼠になって神様をダシにおまんま食べているようでは神様のために働いているのやない。自分のために働いているのじゃ。そんなものは何の役にも立たない。飯食って、くそたれて、つまり、人糞製造機じゃ。どうも人間というものは欲深い。少しよくなると増長する。その慢心が邪魔になる。この慢心を意見してやろうと、神様はおたすけがあがらないようになさる。

 今の教師は信徒が十名二十名できたら講元様、教会こしらえて所長様、先生然として上から下を向いている。御教祖存命中とは全然精神が違う。昔の真実と今の真実は比較にならん。その頃は下から上へ上っていったが、今は上から下を向きたがる。

 今日の道は、いささか道に働いて、苦労の道をちょっと通って、早く大先生になりたい、何でも早く上へ上がりたいと、水に浮いている浮草のように根が定まらぬから落ちるより他に道がない。どうでも自分の真実の心の種を蒔きおろすことが肝要や。そうすればおたすけもあがる。御利益が現れる。それで片っ端から人々は信徒になる。改心しよる。牡丹餅持ってこい、銭持ってこい、酒もってこいと言わいでも、一人で寄ってくる。

 今日はどうも名称に丸もたれや。苦労を嫌い、不自由を嫌うて、所長然、会長然、先生然と構えて、替盆で飯食わせにゃ不足を言う。種蒔くことを知らずに、苦労せずに、徳とることばかり考えている。それで親神様の御守護がない。そんなものに御守護があったら、増長して死んでしまわにゃならん。」

 これはつまり、教会制度の中に安住しているからおたすけがあがらなくなったというわけである。そしてこのおたすけがあがらなくなったのは、心がたかくなったからであり、あがらなくなったというのが実は親神の守護なのであって、これは要するに、もっと心をどんと落として、真実の種まきをすることだけを楽しみとするより他ないという主旨である。

 しかし、こうした教祖時代の信仰に生きる人も、この時代は少なくなっていた。またあったとしても、組織化されてきてからというものは、直接そうして人と膝をつき合わせるという機会も少なくなっていた。それにすでに教祖時代に、そのままには戻れないというのが歴史の法則である。それ故に、人々は新しい教理を求めた。この新しい教理は、増野道興氏によって代表的に現れてくることになった。

 増野氏は、このおたすけがあがらなくなったということに対して、次のように考えていた。

「今日おたすけがあがらなくなったのは、つまり信仰が常識化したからである。教理を自分の頭でこなして、説明するようになったからである。教理を説明していては、人に話すのではなく、自分に話しているのである。そんなことで、相手の心が変わり、生活が変わり、たすかるということは起こるはずがない。これは結局、教師が本当の神をつかんでいないからである。現在の信仰者が二代目になりつつあるのだからそれも仕方ない。

 では、どうすれば神がつかめるかということであるが、これには二つの道がある。一つは偉大なる人格に接することであるが、教祖が再びそのままの姿でこの世に現れてくださるということがない以上、それは望めない。第二は、神を知る機会が与えられるということである。もし与えられないとすれば、自らの手でそれをつくり出すより他はない。大体、信仰は本来非合理なものであり、言うならば冒険である。それ故、常識では不可能であり、無茶だという自体の中に自分を投げ込み、捨て身になってその中に没入することによって、その機会をつかむということになる。その結果がどう出るかは人間には分からぬが、信仰とは、そうした中で自分を根底からつくり直すことに他ならない。

 これは主観的な面からの見方であるが、客観的な面からすると、もう少し違った見方が成立する。客観的にいうならば、不思議なたすけが少なくなるというのは時代の必然である。なぜなら、今日の天理教は、高山布教、海外布教を目指している。そこにはどうしても教理を整備する必要が出てくる。そうして教理と信仰が次第に分離するに至る。だから、今後の天理教の行方には、不思議なたすけがなくなるということは覚悟しておかねばならない。」

 増野氏の言わんとするところは、今後の天理教は、病たすけというより、その元である心たすけという方向に進むということであり、おたすけの結果がどうだというより、まず自らが神をつかむということが急務であるとするのであった。教会制度の中に埋没して姿を見失った神を、再び自分たち一人ひとりの問題としてつかみ直そうというのであった。増野氏の四十年祭に対する考えは、実はこういうところにあったのである。

 

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