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現役の天理教教会長による、ぶっ飛びな天理教のお話や、だらけきった信仰体験談を通して、アナタのココロの筋力アップをサポートします。

天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著

どうも、疾風怒濤のコムヨシです。

連載中の「疾風怒濤の時代」のパート2をお送りします。

パート1をまだ読んでいない方は

天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

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それでは、パート2スタート。

 

 

五、古い教理・新しい教理

 教祖三十年祭は、おさしづに基づいて神殿普請が行われた。しかし、三十年祭以後はおさしづがない。したがって、四十年祭というのは、直接おさしづによらない最初の年祭であって、ここに三十年祭と四十年祭の根本的な相違がある。

 こうした背景から、相当数の人が教祖四十年祭というのは行われないのではないか、と考えていた事実がある。また世間では、四十年祭はあまりやらないものであった。そうした疑問を一掃するために、教祖四十年祭を大正十五年に執行するという打ち出しが、五年前の大正十年になされたわけであるが、ここに天理教は、教祖の年祭の意義はどこにあるかということを、改めて認識する必要に迫られたとみることができるのである。

 では、四十年祭の意義はどこにあるのか。これは、各教会長に交付された、『四十年祭・奉仕と活動』という小冊子や、全教会長を対象として催された講習会によってうかがうことができる。それによると、「教祖がこの夜に現身をもって道をつけられたのは、世の立て替えをするためであり、その世の立て替えは、年を経てこの四十年祭という旬に、その理が事実として現れてきた。つまり、『よなおり』の旬がきたのである。だから四十年祭を盛大に行うということは、教祖の神霊を慰めて各自が霊救を受ける元となるだけでなく、全世界を立て替える一大動因となる。だから各人は、真実の限りを教祖に捧げねばならぬのである」

 では、教祖の年祭は天理教を信仰する者だけの祭典で、他の世間の人たちとは何ら関係がないのかという疑問に対しては、次のように答えられた。

「大体教祖は、人間に対しては親の理であって、教祖が御苦労くださったその理によって、世界一れつの子供たちがおたすけいただけるのである。だから教祖の年祭は、本来は信者であろうとなかろうと、世界中すべての人が心からお祭り申し上げるべきものであるが、現段階においてはそこまで聞き分ける人がいない。したがって理の上からは兄とせられている者、先立ってこの道についている者が、それらの人々に代わって親である教祖の年祭を行うのである」と。

 これを静かに眺めると、当時の人々は、神意がどこにあるのかということを人間の立場から真剣に探り、それに応えようとしている態度がうかがわれる。そして、こうした自主的な信仰態度は、おさしづがおりなくなってから出てきたものということができる。この時代、初代真柱様は出直され、二代真柱様はいまだ幼少の身という過渡期であったから、余計にそうであったのだろう。

 この過渡期ということが、三十年祭から四十年祭にかけてあらゆる面に現れてくる。一番根本的にいえることは、この時期に至って天理教は、初めて教理の偉大さを発見し、教理を中心に動いてゆく姿勢を持つようになった、ということである。

 思えば、この時代は、人材面でも大きな交替期となった。教祖御在世当時に信仰を始めた人たちがだんだん少なくなり、ようやく二代目の信仰者に差しかかった頃である。例えば、明示二十年という天理教信者にとって忘れ得ぬ年に三十歳であった人は、教祖三十年祭には六十歳、四十年祭には七十歳になる。したがって、明治二十年頃に生まれた人は、三十歳前後になるわけである。

 大正十年一月という時期の本部員で、最高年齢は天保十四年生まれで七十八歳の深谷源次郎氏と増井りん氏の二人であり、最低年齢は三十歳の増野道興氏で、明治二十年の生まれである。直接教祖に接した経験を持たない若き増野氏によって、新しい信仰の息吹が吹き込まれてきたのは、誠に意味深いものが感じられる。

 ところで、教祖御在世当時から信仰を始めた人の侵攻態度は、どんなものであったのだろうか。一例として、深谷源次郎氏が数え八十歳のとき、すなわち出直される一年前、大正十一年の教校別科生に対する教話の一節を掲げて、それを偲ぶこととする。

「人間というものはな、大将になりたい、なりたいと思うているのが多いのや。そこお〝ここが辛抱や、短気は損気〟やと思うては、教祖を頼りにして来さしてもろうた。もう年が明けると八十一になるのやけど、神様のおかげで、目こそ不自由やが達者でいさしてもらうています。これも神様のおかげなら、また皆様のおかげと毎日お礼申しています。

 皆さんはおたすけに出られても、この理をよく聞き分けて、欲を忘れて、教祖に仕える、優しい一筋心になって、人さんを大切にしてあげてくだされ。おたすけするときには少々むごい言葉を出しても、それは心を直すためやからよいが、普段は優しい心で通ってくれ。そして今度生まれて出たら、立派な身柄にうまれてくるのやからな。

 不足をしてはいかんで。よう聞き分けておくれ。皆さんはこうして学校まで入っておられるのやから、少し悪い心遣いをしても、すぐ神様は身上にお知らせ下さる。そしたら、心さえ直しておれば、さづけをせんでも直して下さる。

 皆さんは帰っておたすけに行ったら、死にかかっている病人にあっても〝あかん〟というたらいかんで。そうしたら病人は思案をしよる。心が弱るから助かる病人でも助からんことになるのや。そういうときは〝たすかる〟と言うてやっておくれ。そして心の中で〝静かに眠っておくれ。何とぞ、この者の未来をたすけてくだされ〟と言いつつ、おさづけをするのや。すると病人は心がユッタリとなる。それでたすかってゆくのや。この理をよう聞き分けてな。……」

 四十年経った今でも、心に染み込んでくるような話しぶりである。このようにこの時代は、個人的には深い信仰があり、優れた人格者がまだ多くあった。しかし歴史の目をもってすれば、教会制度の中で信仰が次第に形式化し、固定化しつつあった時代でもあったのである。

 三十年祭は、神殿建築という目標に熱中することができたけれども、その熱狂が冷めると、人々は自分とその周辺を振り返ってみて、あまりに教理が貧困であることに戸惑った。つまり、古き教理から新しい教理へ、時代の動く旬は来たのである。

 

 

六、教理に飢えている

 この時代の空気をもっともよく伝えているのは、増野石次郎(増野道興氏の妹婿)氏が「みちのとも」に書いた一文である。

 「独立前には八字ヒゲの教会長を見なかったが、独立後それが急に増えた。……人間が喜んで小躍りしている間に信仰は次第に固定化していった。独断に走った。世界は自然に従いて来ようとみくびっていた。青年の教養も等閑視した。気がついてみると、従いてくるはずであった青年は従いて来ない。何とか転換を求めねばならぬ時である。…」

 これが大正7年の頃、一青年の心に映った天理教のいつわらざる姿である。この中に感じられるものは、教内青年のひしひしと身に迫ってくる焦燥感である。教会制度が確立されてから、青年に与えられたのは、掃除やら使い走りの雑用が主で、教理を聞きたくても、すぐ、それは理屈だと排され、先達の信仰の中にも世俗的な臭気を感じこそすれ理想は感じられず、悶々としてくるしんでいる状態であった。石次郎氏は、この時代をもって天理教青年の危機であったといっている。彼らは「しっかりするにも、しっかりした仕事はなく」、さりとて布教の第一線に立つ勇気もなく、「だからと云うてしっかりせねばならず、膝を屈して両手を捧げた雑巾の上に幾多無念の涙をこぼしたのである。それも一年二年ならいざしらず、五年十年、なおかつ雑巾の中に神様を拝まねばならんと云うことは、血に燃えた青年求道の士の到底耐え得べくもないところであった」と。

  理想に燃え、血気にはやる青年にとって、もとよりこういう状態は久しく我慢できぬところであった。しかし、ここから脱して真実の信仰に進むためには、やはり順序があり、旬の働きを待たねばならぬ。またそれを人間の立場からいうと、成ってくるところを検討し、未来を洞察し、その方法論まで樹立しなければならない。が、ともかく、新しい天理教、新しい教理、新しい信仰を待望する念は、教内全般に満ちていた。その声を我が事として身に感じていた一人に、増野道興氏がある。大正五年八月号の『みちのとも』に、氏は待望の声を率直に表明した。当時二十六歳である。

「……今更云うまでもなく、教祖の一生は主として内的生活の高調であった。……その当然の結果として総ての形式的なことは否定せらるるに至った。それ故に当時の信仰者は、物質的な要求を排して真実の生活に生きんと極度の努力を注いだのである。

 然るに教祖帰幽後に、天理教会が組織せらるるに至った。此の教会組織は、本教徒の内心への物質の必要を感ぜしめる種を始めて蒔いたのである。その後本教は、一面に於いては真実心の開発にしたがうと共に、その他面に於いて教会組織の完全を望むあまり、幾分形式的に流れたことは事実である。

 殊に教祖帰幽後十五、六年頃から、この形式を尊ぶ思想が非常に優勢になって、爾来日を追うて信仰と直接関係のない種々なる施設方法が天理教の名の下に講ぜられた。これがために天理教が改められたことは非常なもので、最後に独立を認可せらるるに至ったのである。而してつづいて本部建築が落成し、茲に本教の形式は残りなく完成された。……同時に今まで少なからず等閑視されていた信仰に目覚めようとする気運が、人心に領域を広めつつあった。更に之を換言すれば、教祖時代の燃ゆるような信仰を衷心から憧憬するに到ったのである。

 此の思想の転換期に、前管長様は突然死去せられた。一葉落ちててんかの秋を知るご如く、前管長の出直しは本教大勢の変化を暗示されたる神意である。

 教祖の御帰幽後、天理教会が組織せられたる如く、管長の帰幽後、熱烈な信仰の燃ゆるは、自然の経路と見るべきである。……三十年祭の捧げ物は神殿であった。然し本教の内容が神意と相反すれば、神の失望は火を見るより明らかである。かくて三十年祭の捧げ物は、五百万信徒の真実の宝より外はない。……」

 初代真柱のお出直し、(大正三年十二月)という天理教の大ふしに際して、これは天理教の一つのターニングポイントであると感じたのは、増野氏一人ではなかった。何らかの意味で、当時すべての青年が感じたものであった。

 親神に捧げるべき真実の宝は、誰もが心の奥に抱いている。しかし、それが生まれ出されるためには、筋道がいる。それは、真実の信仰に復帰することである。真実の信仰は、この時点においてどこから生まれるのか。それは真実の教理、神一条の教理からしか生まれてこない。

 しかし、三十年祭後の多くの人たちは、それを渇望しながら、しかもそれを得ることができないという苦しみにあえいでいた。もちろん、己の誠真実を尽くし切ることによってわが道を行く布教者も数多くいたが、残念なことに、それらの人は語るべき言葉と系統立った教理を持たなかった。そこに、増野石次郎氏によって代表されるような、青年の焦燥や絶望が生まれる素地があったわけである。

 もちろん、こうした空気を知らない指導者ではなかった。後に大きな指導力を発揮した松村吉太郎氏も十分にそれを察知していた。しかし今までの氏のエネルギーのほとんどは、天理教独立にかけられていて、教理研究の必要に目覚めたのはもう少し年限が経ってからである。

 いずれにせよ、そうした優れた人たちの力をもってしても、新しい時代をリードする教理を生むことができなかった。それは、次の時代に新しく生きるべく位置づけられた人たちが、自ら自主的に創造するべきものであったのである。

 

 

 

七、胎動は始まった

 新しい真実なるものは、一朝一夕に生まれてくるものではない。それは、旬の働きの中で生まれてくるものでしかない。それを人間的にいうならば、条件が熟してくるまではどうにもならないことである。

 ところで、この時代の人々がなぜsのように教理に飢えていたかというと、それは教会で聞かされる教理が、すでに心に訴えるものを失っていたということ、つまり教理も信仰も貧困であった、ということに他ならないのであるが、これを他の面からいうと、この時代になって天理教は、人格や奇跡やいわゆる御守護だけを軸とする信仰から脱却して、教理に根拠を置く信仰へと移行する時期に差しかかったということができる。

 もっともこの時代、教理が幼稚であったことは事実であるにしても、それには理由があったのである。教理は、主として口から口へ伝えられるだけであって、しかもそれがたすかるための筋道を付ける目的のために絞られて、公式化された教理になっていたのである。少し深く突っ込んで教理を知ろう思っても、教理書らしい教理書はほとんどなかった。

『教典』はあったがいわゆる『明治教典』で、これは極めて応法の性格の強いものであり、これをもって親神の真の思惑を悟るには無理があった。

それに決定的なことは、『おふでさき』や『おさしづ』という絶対的な原典が、公刊されていなかったことである。この時代は、熱心な人は『おふでさき』を筆で一首一首丹念に写したのである。それしか方法がなかったのだ。しかし、いざ心に解し得ぬ点を尋ねようとしても、註釈があるわけではなく、納得がゆく答えを出してくれる人はほとんどいなかった。その点からいうと、当時の人たちは誠に恵まれない状態にあったといわなければなるまい。

 では、新しい真実の教理が生まれるべき条件は、どのようにして熟していったのだろうか。

 まず大正時代になって、そろそろ天理教の内に学問を修めた青年が育ってきたことが挙げられる。

 昔の信仰者は、一般に「学問はいらぬ」といって、学問を蔑視する気風があった。これは、信仰というものは心を真実にするための営みであって、学問や知識とは本質的に違うものであるという考え方によるものであるけれども、実際には教会の経済が苦しく食べるのがやっとで、子弟の学資までとても手が回らないという事情が多かったのである。

 この時代の青年は、ほとんどが極度の困窮の中に生い育った。おかゆをすすり、着たきりすずめの粗末な着物を着せられ、たまに蒸し芋のおやつを食べて大きくなった。その胸の中には、なぜこんなに貧乏してまで信仰しなければならないのだろうか、という疑問も当然湧いたことであろう。しかも外に出れば、「あれは天理教の子共や」というので石を投げられたり、ひどい悪口を浴びせられたのである。子どもは無邪気であるとよくいわれるが、なかなか辛らつなことを口にするものだ。その上、親は布教にかかりっきりで、やむを得ぬことながら、家庭は人間的な温かさに乏しいものがあったであろう。そんな中で育ってくれば、誰でも心の中に一首の劣等感や反抗心というものが湧く。

 成年に達して、教会から出て行くものも数多くいた。第一次世界大戦で成金が続出したことなども、よその世界のこととは思われなかったのだろう。気骨のある連中は、大金持ちになろうという志を立てて教会を飛び出した。惜しいことに英才を抱きながら上級学校へも行けず、涙をのんで教会にとどまった人もあっただろう。よく聞いてみると、大抵の人は一度や二度は教会を飛び出して、広い世間で一旗揚げることを夢見たというのが、その頃の実態であった。

 しかし、そうした中にも、静かに時代は動いていった。信仰者の子弟で、大学や専門学校へ進む機会に恵まれた者がぼつぼつ出てきたのである。さらに大正に入ると、その数はぐっと増えてきた。続々と英才が現れ、地方教会の成年も数多く大学の門をくぐった。

 二代真柱様の東大御入学を前にして、こうした姿を見たことは決して偶然ではなく、何か親神の思惑があったと感じざるを得ないのである。

 

 

 

八、因縁果たしの教理

 ところで、新しい教育を受けて育った人たちは、ほとんどが二代目の信仰者であって、それらの人は改めて親神の教えとは何ぞやと問うようになった。これは当然のことで、彼らは道を聞かされることより、自分から道を求める過程の中に、信仰をつかむべく運命づけられたにすぎない。それ故に、教理の本質について憧憬の念が強くなるのも道理であるが、一般の人はどちらかというと、教理に対して受動的であり、人から聞かされるという形をとった。どんな教理が主として聞かされたかというと、「因縁果たしの教理」といわれるものであったようである。

 教祖御在世の頃は、皆どんどんたすかったので、それが有り難いから信仰を始めた人が多かった。しかし、おさしづにもうかがわれるように、「定めたら治まる」というように信仰が変わってきたのである。これは、人間が自主的に信仰してゆく過程に入ったということであるが、その一つの現れが「因縁果たしの教理」であって、因縁を果たせばたすかる、教理がわかってくる、親神の思し召しが悟れてくるという筋道の教理である。これは教理よりも実行を主とした信仰であった。

 しかしこれは、果たせばたすかるとか、信仰とは因縁果たしをすることだというふうにとられる可能性の強い教理でもある。そしてもう一ついうならば、因縁果たしをした後どんな心の状態になるのか、どんな世界になるのか、その展望にいささか欠けるきらいがある。その裏に陽気ぐらしの世界があるのだ、という線が明確ではない。だからどうしても、因縁果たしだけであると信仰が暗くなり、悲愴になる。後に、「泣いて果たすか」という映画ができ、それが四十年祭の気分をぴったり表したようにいわれたが、これは教理の狭さの結果といわねばなるまい。

 ところで、選ばれた少数の高等教育を受けた一人である増野道興氏は、早くから因縁ということに対して一つの独自の見解を持っていた。氏は因縁ということを、潜在意識というように解していた。

 潜在意識というのは、もちろん心理学の言葉である。われわれ人間は、普通表面的な意識にのぼる心遣いは自分でも分かっている。しかし実際は、その奥に巨大な無意識の層がある。これが潜在意識といわれるものである。その潜在意識が実は、人間そのものであるということができる。これは容易に一変することはない。心は変えることはできても、潜在意識は簡単には変えられない。つまり、おていれとかおさわりというような、心のほこりの範囲で起こってくる身上は治るが、因縁の病気といわれているような身上は容易に治るものではない。なぜかというえば、それは潜在意識からくるものだからである。その潜在意識に働きかけ、それを一変せしめること。そこに増野氏は、信仰の根本的な在り方を見たのである。そうでなければ信仰の意味はないと考えたのだ。

 

 

 

九、増野道興氏の方法論

 教祖は、人格の力をもって人間の潜在意識を一変せしめた典型である、と増野氏は見ていた。また、よくおたすけがあがったといわれる昔の信仰者たちは、必ず相当な人格の持ち主であると解した。その人格は、世間でよくいう人格者という意味ではなく、直ちに人間の潜在意識の範囲にまで入り込む力のある人という意味である。

 こうした人格があって初めて、おたすけが成り立ち教理が生きてくる。この人格を離れた教理は死んだ教理であって、そんな教理は説明するにとどまるから、頭に働くだけでいくらやっても潜在意識は変わらず、したがって不思議なたすけは起こらない。

 しかし、ただの人間にすぎない者が、そうした人格を得るのは口でいうほど容易ではないしかし、神がようぼくとして引き寄せた以上、各人は根底においてその力があるはずである。それがないということはない。眠っているだけである。眠っているというのは、常識の範囲で生きているからであって、そんなことではいつまで経っても教会の俗務、人間の煩わしさに追い立てられるばかりである。

 増野氏は実は、信仰の世界に人間的な俗務が多いことに心の底からうんざりしていた。東京から帰って本部に勤めるようになったとき、お屋敷の中においても、それが余りにも多いということにいささか絶望した。与えられた仕事は、本部青年としての使い走りや掃除や雑用ばかりといってよかった。家に戻って勉強するほうが良いと何遍も思ったが、お屋敷はそんな所ではないと心に悟って、何も成すことのない三年間、氏は教庁の事務所で一人瞑想にふけった。心潜めて神一条の世界を思い、おふでさきやおさしづの世界をさまようと、これこそ自分の気持ちがそのまま表現されているとすら思われた。増野氏の教理や思想は、この深い瞑想と沈省の中から生まれたものである。

 しかし氏は、一方において神一条の世界が果たして今日の教会制度の中において実現し得るものなのかどうか、疑問に思っていた。神一条にあこがれればあこがれるほど、天理教の世界は人間くさく、常識的であり、堕落していると感じられてならなかった。教会は困窮にあえぎ、物にとらわれ、神様がおられないような暗く空しい神殿を抱えて、いたずらにその留守番をしている人ばかりが目に付いた。信者は、自分のたすかることばかりを考えていて、二言目には、自分は因縁が悪い徳がないと、泣き言を並べていた。これが神の望んだ信仰の世界であったのであろうか。神は、どこかへ行ってしまわれたのではあるまいか。いや、そうではない。人間の心が死んでいるだけだ、増野氏は考えた。

 そこで氏がとった方法論は、まず第一に各人の中に眠っている神霊というべきものを目覚ますことであった。

 また信仰の根底を、「どうすればたすかるか」という単なる因縁果たしから、一転して「いかにすれば神の働きを得ることができるのか」という方向に換えねばならぬと考えた。

 これは、親神の働きによって各人の信仰や精神が一変することであるが、これを人間の側からすると、その親神の働きを得るためには、人間はその限界を突き破るだけの理を尽くさねばならない。そうでなければ神の働きを得ることはできない、という考え方であった。

 そのために、氏がとった前段階的な方法論は、まず人間の常識的な信仰をぶっつぶすことであり、人間思案では不可能と思われることに挑戦し、その中で神の働きを見ようということであった。こうした考えから、後に敷島大教会長になったとき、教勢倍加を唱えたのである。「いかにして神の働きを得るか」、その一点に極度に焦点を絞ったところに、氏の教理の本質がある。それは極めて主観的な方法論であり、人間的な方法論であり、布教者の方法論である。それ故に多くの人は、これに共鳴したのであるが、同時にそれがあまりに主観的であったが故に、行き詰まることにもなったのである。

 また氏が、神一条の世界が教会制度の中に実現されるものか疑問に思いつつ、なおかつ各人が神一条の信仰をつかむためには、教勢倍加という目標の中に生きねばならなかったという矛盾の中に、四十年祭の教理的な悲劇性が内蔵されていたとみることができる。

 しかし、人間というものは、生きている限り矛盾から脱し切れないものなのかもしれない。

 

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