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現役の天理教教会長による、ぶっ飛びな天理教のお話や、だらけきった信仰体験談を通して、アナタのココロの筋力アップをサポートします。

天理青年必読「疾風怒濤の時代(終)」 木村牧生(西村輝夫)著

どうも、疾風怒濤のコムヨシです。

 

全四回にわたって連載してきた「疾風怒濤の時代」も今回がラストです。

その前に前回までをおさらいしたい方、まだ最初から読んでない方は

こちらから↓↓

 

天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

天理青年必読「疾風怒濤の時代(3)」 木村牧生(西村輝夫)著 - com-yoshiのブログ

 

では、最終回レッツゴー。

 

 

 

十四、信仰と教会制度

 天理教の発展はある一面、教会数の発展でもあった。明治二十一年十二月の郡山分教会を最初として、大正九年末には四千九百二十五カ所まで発展した。しかし、ここまで発展する一方、教勢の停滞や限界というものも意識され始めた。

 明治四十一年、天理教は念願の一派独立を果たし、教祖三十年祭には本部の神殿もできた。外面から見ると、これは天理教の大発展であり、前途はまさに洋々として開けてくるはずであった。それが反対の現象を呈したというのは、何か天理教内部にその原因がなければならない。その原因の一つとして考えられるのは、教会制度が一つの行き詰まりに達したということであろう。

 大体教会制度の始まりは、教会制度をとらなければ信仰を続けてゆけないという国の律から起きてきたものであって、元は、信仰があって教会があり、信仰が主で教会は従であった。言葉を換えて言えば、教会というのは、信仰の自由、祭典の自由、布教の自由を獲得するための道具であった。だから初めの頃は、人々は教会に重きを置くことなく、ひたすらおたすけに没頭した。そこに不思議なたすけが続出したのである。ところが、教会制度ががっちりしてくると、不思議なたすけが昔ほど上がらなくなったという声が聞こえ始めた。これは年限が経つとともに、かつては道具であった教会のために人間が心を労するようになり、教会のために神一条に道が説かれるという逆の現象が随所に起きてきたためだということもできる。

 もっとも別の観点に立ってみると、これは当然出てくる問題であって、教会制度ができ、建物も完備されてくると、信仰の形態と内容が変質することは避けられないことである。

 天理教の人は信仰の始め、たすけられた喜びに燃え、いんねんを自覚し、一切の所有を納消して、神の道に自分とその家族をささげた。その結果生まれたのが有形の教会である。しかし教会ができると、そこに「わが教会」という観念が生じてきた。同時に、教会の維持・経営という問題も起こってきた。教会を発展させることが、すなわち神の道の発展であるという考えも出てきた。一度は捨てたと思った「わがもの」という考えが再び頭をもたげ、かつては潔く納消してそれでよしと思っていた物質生活、経済生活という問題が、形を変えて重くのしかかってきた。これは大局的に言うと、やはり天理教人にとっての通らねばならない第二のいんねんの姿であろう。これが三十年祭に至って、天理教全般の中に生じてきた事情である。それは当然のことながら、教会の行き詰まり、教勢の停滞、困窮、そして自分の教会を中心とした見方・考え方の横行という形になって現れてきた。

 もちろん、布教意欲に燃えた前向きな教会では、そうした人間思案の入り込むすき間がなかったが、多くの教会は負債のために沈滞し、教会をどう維持するのかという問題にエネルギーの相当な部分を割いて頭を悩ましていた。またこの頃は、天理教全体としての統一的な理想・目標というものを失いかけていた。若い人の中には、人間くさくなった教会の現状に飽き足らぬものを感じ、批判という形で理想を求める者もいた。

 こうして天理教の大勢は、行き詰まりの観を呈していた。しかし、天理教に行き詰まりはあったとしても、神の道に行き詰まりはない。神の道を行く天理教がもし行き詰まったとするならば、それは神の道を行く者の人間思案を原因とするものである。しかし、人間思案は捨てなければならないと言ってみたところで、それは容易に捨てられるものではない。何か人間以上の力が働いてこなければ、大勢というものは一新できない。人間以上の力が働くためには、人間がそれに値するだけの心を尽くさなければならない。そしてそれは、まずぢばに現れてきた。新しい力がぢばに生まれてきたのである。

 

 

 

十五、ぢば中心主義

 教祖御在世当時は、教祖という絶対的なよりどころがあった。明治二十年以後はおさしづが下りた。おさしづが下りなくなってからの教祖三十年祭は、おさしづに基づく神殿普請という目標があった。三十年祭が終わると、天理教は一時的にそれに代わるべき全体的なよりどころを見失った。そこで、教会中心の思想やさまざまな人間思案がでたとしても、それは決して怪しむに足るものではなかった。しかし、そうした混乱の時期を経て自覚されてきたのが、信仰面からするぢば中心主義であった。

 ぢば中心主義に一応対比されるものとして考えられるのは、教会中心主義とでも名付くべくものである。神殿普請の際に、「何が無うなっても構わん。大きな心に成ってくれ。」(明治38年12月4日)という心で進んできた人たちは、三十年祭後自分の教会を整備する必要に迫られ、そこで芽生えてきたのが教会中心の思想である。これは、どうしても人間中心の信仰形態となることは避けられないのである。

 こうした思想がある一方、当時のぢばは、信仰の中心という性格はもちろんあったが、どちらかというと教会の本部であって、事務を取り扱う所という性格もかなり濃厚にあった。また本部において、信者に直接教理を説くこともあまりなかった。天理教校は、増野氏が校長になって一新するまでは、教師の資格を取るための施設という性格が主で、本当の信仰をここで培うという気風はそう強くなかった。

 こうした中において、ぢばはそうした事務の取り扱いではなく、もっと真実の意味におけるぢば、すなわち、たすけ一条のやしきとならねばならないと強く感じたのは、本部員松村吉太郎氏であった。松村氏は、三十年祭の時は収監されていて、暗く寒い獄中で、一人しみじみと教祖のひながたを身に味わいつつ遥拝した。それだけに、来るべき四十年祭対して心に期するものは深くそして強かった。氏のこの貴重な体験は、その心に真実の信仰心を燃え上がらせた。あるいは、神に目覚めた人となったと言ってもよいかもしれない。

 大正九年、氏の提案が動機となって神殿における神前奉仕が始められた。これは神前に奉仕するとともに、参拝者に対して教理を取り次ぎ、神殿をたすけの道場たらしめんとするものであったが、そのもう一つ奥には、ぢばが名実ともにたすけ一条のやしきたる実を備えることを念願したものであった。これは教会中心の思想と違い、また布教中心の思想とも違った。教会をして教会たらしめ、布教を可能にする根本のもの、すなわち、親神・ぢばの理に仕えることによって信仰中心の気運を醸成し、親神の御力によって、すべてのことを図ってゆこうとする思想であった。

 増野氏が教校の改心を目指したとき、それは松村氏と軸を同じくする思想の上に立っていた。松村氏がぢばが信仰の雰囲気に包まれることを念願したとするならば、増野氏は、教校が信仰の雰囲気に包まれることを第一としたのである。しかし、いかに信仰の雰囲気があっても、人々の心にそれを受け取るだけの心の理がなかったならば、一方的なものにすぎない。本部の意思と一般教会の意思が一つにならなければ、自由自在の理は見せていただけない。しかし、順序から言って、まず本部が率先してそうした信仰的な雰囲気を求め、親神の自由をお働きによって事を進めてゆこうという心になった以上、それはおのずと一般教会に映るのは当然である。果然人々の心はぢばへ向かい、教校別科生は倍加倍加というふうに増えていった。ぢば中心主義は、こうした姿においてその正しさを実証し、人々はまた心の目を新たに開くことになり、一つの信仰の転機を迎えることになったのである。

 ところで、人間の心はそれぞれ皆違っている。その違っている心を一つにするためには、すべての人が自分中心の考えを捨て、神の心に合わしてゆかなければ、永遠に心が一つになることはできない。では、どうすれば皆銘々に違っている心を一つにし、すべての人々がぢば中心、信仰中心に立ち返ることができるのか。この点に、実は最大の課題と苦心があったのである。

 教理を徳だけではそれは冷ややかで、人の心を動かすことはできない。人間んが人間を動かすことには限界がある。人間の心を動かすには、どうしても人間の心より強い意志によらなければならない。そうなると、すべての人間の思い・努力以上のもの、すなわち「一切を親神にお任せ申す」より他ない。親神に働いていただくためには、それだけの理を尽くさなければならない。すなわち、心を澄まし、人間思案を越える苦労をしなければ働いていただけない。

 このように、四十年祭の打ち出しを前にして、本部は一切を親神にすがって、そのお働きによってすべての事を成してゆこうとする心と姿を示し始めた。これが時旬に先がけてぢばに現れた姿であり、これがぢば中心主義の意味するものだったと思われる。

 人間の目からすれば、そうした心を松村氏が、増野氏が、あるいは当時の本部の人たちが起こしたことになる。それには違いはないけれども、なぜそうした心が生ずるに至ったのかを探ってゆくと、人間の言葉で言えば時代の要請、別の言葉で言うと時旬の動き、自覚というものが働いていたのである。そうでなければ、それが人を動かす力とはなり得ない。

 

 

 

一六、大衆路線

 当時、道友社編集主任でもあった増野氏は、大正九年六月号の『道乃友』に、「暗黒世界へ」と題するいささか文学的な表現を持つ、型破りな巻頭言を書いた。

 増野氏はよく、「堕落した者でなければ信仰は分からない」と言っていた。また、「自分の心が本当に澄んでないから、人にその理が説けない。その理が映らない」ともさんげしていた。氏はまさに、自分の心の中において暗黒を意識していたのである。人は、畢竟(ひっきょう)この暗黒の世界から脱し切れないものかもしれない。しかしこの暗黒がある故に、一層親神の教えの意味が深くなってくるのである。氏は、自分の心の底にそれを強く感じるとともに、外部においてもそれを認めていた。すべての人の心に潜む暗黒の世界をよく知っていた。そして、その暗黒の世界へ突進しようとしていた。それは真直に一つの方向を指した。

   「大衆の中へ行け、街頭に立て」と。

 大衆という言葉は、大正時代になってよく使われるようになった。天理教でも大衆布教が言われ始めたのは、やはり大正になってからである。もちろん、貧民の中に飛び込んで捨身のおたすけを展開した天理教人は数多くいた。しかし、ちゃんとした教会ができてくると、そうした気風はいくらか薄らいできた。そこに天理教が活力を失い、自己に閉じこもる一つの原因があったとも言える。

 しかし増野氏は、そういうことに影響されて「街頭に立て」ということを思い立ったわけではない。実はこれは、ぢば中心主義から出てくる当然の帰結であった。ぢば中心主義によって天理教の中に信仰の情熱が復活してくるならば、それは外へ向かってあふれてゆくことになる。それを待っているのは、疲れ、悶え、泣き、苦しむ人たち、すなわち大衆である。天理教が真実の心に立ち返ったとき、その目に映るのは自分や教会ではなく、これら大衆である。今やその中に真直に入っていって、大胆に教えを説き、光明をもたらさなければならない。今の言葉でいうと、現状に甘んじることなく、勇んでにをいがけ・おたすけに出ようということである。それを増野氏は、ことに若い人に向かって呼びかけた。そして、大正九年十月号の『道乃友』の冒頭に「街頭に立て」と題する一文を載せ、「巷に出て、天理王命の名を高く唱えようではないか」と唱導したのである。

 これは教会の中に閉じこもって、鬱積したものを持て余している青年を引っ張り出して、街頭にその活動の天地を与え、それを契機として天理教の大勢を静から動へてんじさせようという意図が含まれていた。

 この呼びかけによって、東京、大阪でのろしが挙げられた青年による路傍講演の動きは、全教に広がり始めた。教校生も秋季大祭を期として、有志百五十人が八組に分かれて三日間、親里の各地に赤い高張を立てて街頭に立った。神戸、京都、四国、さらには朝鮮の京城においてもその火は広がった。青年は自分の活動の天地を見出して、自身と勇気を取り戻した。この中には、今まで教会制度の中に形式化し固定化していた天理教を、束縛から解き放し、もっと広い自由なものにしようとする意図が含まれていた。

 ぢば中心主義が求心的な、内面的な性格強いものとするならば、こうした街頭進出は、外向的な活動的な性格のものであった。それだけに、苦しい内面世界の探求の道を避けて、もっぱら外部に向かって活動することに生きがいを見出そうとする信仰を、一つの「活動」と見る傾向もあったし、一部では組織に対して反抗的に、また示威的に、あるいは新しいものに飛び付くようにして、街頭講演に出た者もあったが、全体として見たとき、青年は「われわれは教祖のお伴をして大衆の中へ入ってゆくのだ。それがわれわれの使命だ」という喜びを味わうようになった。また、「自分たちは大衆と共にあるのだ」と意識するだけで、何か新しいエネルギーが感じられてきた。この意味から言うと、街頭進出は信仰の本質ではないとしても、やはり天理教の転換の一つの動機になったと言えるものであった。

 こうして、ぢば中心主義と大衆路線を軸として、四十年祭の前哨は始まった。

 

 

 

十七、積極論と消極論

 大正十年一月二十六日、教会本部は直属教会長を全員招集した。そして松村吉太郎、板倉槌三郎、高井猶吉の三本部員が出席して、教祖四十年祭を来たる大正十五年の一月に執行する旨の発表があり、その準備について種々相談するところがあった。

 五年も前に年祭の発表があるということは、本部が大きな決意をもって準備に当たろうとしていることを物語っていた。もっとも三十年祭は、九年も前におさしづによって打ち出された歴史がある。しかもこのときは、御本席の身上というふしがあり、また神殿建築という大事業が具体的な目標として示されていた。それに比すると、四十年祭の打ち出しには、そうした具体的な目標は示されていなかった。

 しかし松村吉太郎氏は、このとき大体二つの根本的な構想、方針を心に描いていた。その一つはぢばの拡張であり、もう一つは教勢の倍加であった。

 ぢばの拡張は、信仰的なぢば中心主義から出てくる根本方針であった。今は天理教人にとって確固不抜のよりどころとなるものは、ぢばの理をおいて他にない。したがって、ぢばの拡張に対して不満や疑念を抱く人はいないはずであった。

 しかし当時の教会は疲れ、人々は教会中心思想に陥っていた。そういう状況において、大規模なぢばの拡張を目指すことになると、実際には一つの矛盾に突き当たるという人も少なくなかった。それは、教会が疲弊し借金で頭が回らず、自分のことで精一杯なのに、まだその上にぢばのために尽くすとなると、自分のところは立ち行かないという考えであった。

 また、教勢の倍加や教会の倍加に関しても、反対意見が最初からあった。その意見は次の三点に集約される。

(一)この道は天然自然の道であって、人為的に、短期間で教会を倍加するのは、その   天然自然の理に反するのではないか。

(二)教会倍加は、教勢の拡張という外面的なことに重きを置くものであって、それで   は肝心の心の成人という面が抜けてしまうことにはならない。

(三)教会の倍加にとらわれると、例えば現在百戸の信徒を二つに分けて、五十戸、五   十戸として教会を倍加するようなところも出てくるかもしれない。そうなれば、   かえって教勢の分裂をきたし、弱体化を招くのでなないか。

 いつの時代にも、積極的な人と消極的な人とがいることは仕方のないことである。両方に、それぞれの理由なり根拠がある。しかし、四十年祭が打ち出された以上、一手一つになって目標に進まなければ、どんなに皆が力を出しても、方向がバラバラでは大した御守護は見せていただけない。論議をしても前へは進まない。四十年祭においては、いわば積極派の人が主流となり、それが全教に波を湧き立たせたのであるが、どういう経路でそうなっていったかは一つの問題である。

 当時、積極派の中心は松村吉太郎氏であり、さらに増野道興氏であったことは、大体において間違いないと言える。ことに増野氏の信仰は、大正八年頃から十四年頃までが、その絶頂であった。

 四十年祭の打ち出しがあった同じ日の午前十時から、かんす山の校庭で、天理教校同窓会第二回総会が行われた。増野氏はその数日前の二十二日に、生後百日程で長女が出直すふしに遭い、悲しみの中に、いかなる神様のお知らせであるか判然とせぬまま心を悩ましていた。この日氏は、そういう個人的な事情も知って襟を正している同窓生を前にして、一場の講演を行った。これが四十年祭に対する直接の第一声であった。

 この講演は、感情に激した大声疾呼とは異なり、静かで深い口調であり、いくらか悲痛な色調を呈していた。氏は常々、大声疾呼して人を踊らせることを軽蔑していた。それで人はうごくものでないということを知悉(ちしつ)していたし、むしろ、深い心があるならば、うつむいて黙々と一人行くのが真の信仰者であると信じていた。講演の最後で氏は、あたかも自分に言い聞かせるようにこう結んだ。

   神様は「出来ん事出来るが神の道」(明治四十年四月九日)と仰せられている。自分でできると思うことは、そう思うことがすでに神様の力を無視しているから、かえってできぬことになる。できんと思うことは、神様にすがる心があるから、それは成り立ってくるのである。故に、自分の力ではできにくと思われるだけの、大きい心を定める必要がある。

 大体心定めをする上で、二つの重要なことがある。心定めをして、それが神様の御心に叶うたときは、心に勇んだ理が出てくる。故に心定めは、この喜びが心に湧くところまで定めなければならない。次に心を定めたなら、それが大きければ大きいだけ、苦痛も大きいのである。それは覚悟をしておかねばならない。しかし、苦痛の後には必ず神様が近寄ってきてくださるのだから、そこさえ通り越せば必ず幸福が与えられる。

 これを要約すれば、心定めは、内においては大なる喜悦を感じなければならず、外に対しては大なる苦痛を見なければならぬことを覚悟して、なるだけ大きい望みを持つことが必要である。それさえできれば、いかなる大事業も必ず完成し得る。私は心からその日の実現することを希望し、かつ憧憬するものである  と。

 

 

 

十八、眠れる獅子は立った

 四十年祭のことが決した以上、それが成るから成らんか、またいかなる形と内容をもって現れてくるかは誰にも予測できないことであった。その中をあえて進もうというのであれば、四十年祭は文字通り大きなふしであり、真剣命懸けの道であった。その真剣命懸けの努力によって、天理教はここまで来たのである。

 しかし、教会倍加を実行するについては、まず教勢の現状を正確に把握する必要があった。大正十年頃というと、信仰は復活に向かい、教理の本筋が表に現れ、教校別科生は次第に増し、青年会の活動は上げ潮に向かうという好材料はあったが、それでも一般の教会は借財に苦しみ、そのためにをいがけ・おたすけという方向に活動が進むのが遅れていた。常識からいくならば、教会が疲弊しているから大きな荷物は背負わせなれない。重荷を課せばつぶれてしまうことになる。しかし、この道はその常識とは逆で、教会が疲弊しているからこそ、その泥沼から真実の理のある苦労をすることによってよみがえるのだ、というのが松村氏の積極論の根底にあるものであった。

 旬の理、刻限の理を知らない者からすれば、教会倍加は、天然自然の理に反することだと思われるのも当然であった。しかしそれは、楯の反面しか見ない者のいうことであって、天然自然の道においても、わずかの間に急激に伸びる旬が必ずある。そして、今やその旬が来たのである、と。

 しかし、これは信念としては偉大であっても、ただそれだけでは人を動かす力とはなり得ないものであった。それには、実地においてその先陣を切って雛形を示し、人の心を揺り動かすものを、どうしてもすべての人の目に映さなければならなかった。その先陣を切ったのが増野氏であり、その背後には、おそらく松村氏の悲願が込められていたものと想像される。

 大正十年三月二十三日、増野氏は敷島大教会長に就任した。長女の出直しは、このためのお知らせであったに違いないと心に悟った氏は、その頃「眠れる獅子」と呼ばれた敷島に乗り込んだ。当時の敷島は、大教会も部内教会もドン底にあえいでいて、おたすけ活動も鈍りがちであった。

 就任早々、増野氏は爆弾を投げ付けるような提言をした。大正十年中に、五十カ所の教会名称を設置すること、また教校別科生を百五十人募集することである。そのために四月には早くも講習会を開き、眠りを覚まさせようと真剣命懸けの努力を傾けた。

 氏の言わんとすることを簡潔にまとめると、「大教会の借金は会長が責任を持って片付ける。だから部内の者は、一意専心おたすけに渾身の力を注げ」ということであった。しかし、この決心は多くの人には、三十を越したばかりの経験のない会長が夢のようなことを言う、ぐらいにしか受け取られなかった。しかし、そういう気分こそ一新する必要があった。深い心を定めて一歩も退かない覚悟さえあれば、必ず神様が働いてくださる。どういう形で現れてくるかは分からないが、それまで持ちこたえ、通り切ることができるかどうか、そこが岐路だ。しかし、すでのさいは投げられた。前に進むより他に道はない。こうして増野氏は、講習会において「おぢばのために玉砕しようではないか」と叫んだ。

   神様は人に難儀さそう、不自由さそうとしてこの道をつけられたのではない。もし難儀し、不自由しているのであれば、それは神様の道を歩いていないからそうなったのである。しかし今日からは、神様のおっしゃる通りにやってみよう。それをやって、もし自分のところが潰れてしまうのであれば、潰れてもよいではないか。大体やりもしない先から心配するような小さい心では、神様のお働きを心で止めているようなものだ。やってみて、教理が本当であるかどうか試してみたらよい。そうしたら本当の神様の働きが分かってくる。この意味で、敷島が四十年祭のために、御本部のために倒れても満足である。なぜなら、神の道を立てるために敷島が立っているからである  

 この魂の叫びは、全講習生の心を揺さぶった。しかし現実には、この期間中に大教会は借財の整理をする必要に迫られていた。これをどうするかについて、増野氏の信念はついに役員らを動かした。そしてぎりぎりの三日目になって、それは一挙に解決したのである。この鮮やかな神様のお働きが、講習生の心から心へと響いていった。信じて通り切れば、必ず神様が働いてくださることを目の前に見たのである。それは、がぜん興奮と感動を呼び起こした。そして、「よし、この旬に自分もやってみよう」という心を皆が固めた。

 これが、眠れる獅子が立ち上がるきっかけとなった。心一つがどれだけ大きいものか、そこが分かったのである。人々は、できると思った。やろうと思った。自分たちには神様が付いておいでになると、信じて疑わないほど成人していたのである。

 

 

 

十九、倍加運動の実際

 天理教は、あくまで心の成人の道であって、教会を設置することは目的ではない。それは決まりきったことである。にもかかわらず、なぜ教会の倍加が目標とされたのか、そこに一つの疑問がある。

 しかしこれは、神意を誤って受け取ったために起こる問題であって、倍加運動は倍加そのものが目的ではなかったのである。

 大体本部の意図するところは、次のようであったと解される。すなわち、盛大な年祭を執行して教祖の御心にお応えするためには、少ない道具では成し得ないのである。たくさんの道具が要る。そして教会とはその道具である。つまり教会とは、神意をこの世に実現するための道具であって、それ自体が目的ではない。

 したがって倍加ということは、たくさんの道具をまずつくって、しかる後にその道具で大きな働きをしてゆく、これが本当の目的である。教会の倍加は、教師の倍加、ようぼくの倍加ということである。世界たすけの用材が増えるということである。こうして第一段階の目標をひとまず倍加に置いて、日本国中に神名を流し、その勢いで次は海外へ進出する段階となるのである。さらに言えば、教祖四十年祭は、来るべき教祖五十年祭および立教百年祭に対する準備であるとも言える  

 倍加運動の真意は、およそこの辺にあったと思われる。しかし、実際にそれをどう人々が受け取ったのかになると、多少のずれが起きたことはやむを得なかった。しかしその点に触れる前に、ともかく大正九年末に四千九百二十五カ所であった教会が、昭和元年(大正十五年)末に一万二百七十八カ所となった。すなわち、倍加の実を挙げたことは事実であって、これは素晴らしいことである。そこで、それがどうしてできたのかという疑問が、当然起こってくる。

 おそらく倍加運動は、敷島大教会がその先陣を切る心構えを持ったことに端を発しているであろう。そして、全教にその声が盛り上がってきたのは、大正十年末頃である。大正十年の教会設置数は二百十九カ所であるから、それ以前とそう目立った変化はない。それが大正十一年には六百二、十二年には七百六十一、十三年には千九百十五、十四年には実に二千百八十七カ所という数に達している。これは一月平均百八十二カ所、一日平均六カ所の割合で教会が新しく生まれたことになる。誠に目覚ましい躍進と言わねばなるまい。

 大体天理教において、教会の設立ということは容易なことではない。人為的にそれが成し得るのであれば問題は簡単だが、親神の守護によりそれを成そうとすれば相当な年限がかかる。一人のようぼくにしても、その名に値する成人を遂げるまでには、やはり年限がかかる。しかし四十年祭においては、布教開始から教会設立までに要した期間は、二年半以内というのが最も多かったようである。

 また結果から大体の傾向を眺めると、倍加運動は、都市において多くの教会が設立され、農村においてはその伸びが少なかったようである。つまり、従来から布教が難しいといわれてきた地方は、依然としてその壁を破ることができなかったということも言える。これを概して言えば、天理教全体のウエイトは農村から都会に移り、大都会に布教者が密集するようになったのである。例えば東京は、大正十二年の関東大震災で空前の被害を受けたが、それでも教会数が約三倍になったという事実は、いかに東京に新天地を求めて布教者が集ったかを如実に物語っているものである。この傾向は以後ますます強まり、昭和に入ると、東京の町角に立っていると五分間置きに独特の服装をした天理教の布教者が歩く姿を見ることができた、という伝説が残っているほどである。

 

 

 

二十、倍加運動の結果

 さて倍加運動が、初期の目標を大体達することができたのは、いかなる理由であるかということだが、簡単に言えば、それは旬の理に従って皆が懸命にやったからということに尽きるわけで、それ以上ほじくってみてもあまり意味はない。しかし、ここでは二次的なものとして、若干の視点を示しておきたい。

 まず第一に考えられることは、倍加運動は無から有を生じたというより、それを可能にするだけの信者がすでにあったということである。教会倍加の中心となったのはようぼくであるが、このようぼくあるいは教師にどんな人がなったのかというと、昔から信仰していた信者が、四十年祭の旬の声に従って成人したという人がかなり多い。これは、教校別科生に入学した人の内容を見れば分かることで、新しく布教した結果として入学した者は、そう高い比率を占めるわけではない。つまり四十年祭は、それ以前の信仰の再編成であるという性格を抜きにしては、倍加運動を語ることはできないのである。

 次に考えられることは、下からの盛り上がりがあり、また、ことには第一線の布教者によって支持されたことである。本部にあらかじめ腹案はあったとしても、実際は敷島などの例に刺激され、そこに自然と声が起こってきた面が強かった。しかもそれが、各教会ごとにそれぞれ刺激し合い、競争し合うようにして、全教に渦を巻き起こしたのである。

 倍加運動で本当に布教したのは、やはり第一線の布教者であるが、この時代には極めて多くの単独布教者が出た。倍加運動は、これらの布教者に最もふさわしい目標として迎えられたのである。容易ではないけれども、できないことはないという地点に、具体的な目標があったことが大きな希望を与えた。

 しかし、こうした目で見る中には、実利的な傾向が流れていたことも見逃すわけにはいかない。上級教会長の中には、倍加運動をもって、部下の数を増やすことであると解して力を入れる、という向きも若干あったことは否定できない。またそのために、上級教会長も第一線布教者も倍加にとらわれて、いくらか功を焦る気持ちも確かにあった。

 倍加運動の目的は、教会を倍加することが目的ではなく、教会という道具をたくさんつくって、その道具で大きな働きをすることが目的であったのであるが、実地になってみると、教会を設立する以上、まず設立すること自体を目的としなければ達成することはできない。ましてや、機嫌は限られているのであるから、心の成人というよりまず形という方向に走ったのも、実際は無理からぬことであった。

 しかし、いずれにしても、多くの人が功を焦っていたとは言えるであろう。布教の重点が農村から都市に移ったのも、比較的布教のやりやすい都市に人々が集まったわけで、ある場合には、布教の上において能率を尊び、効果を上げることを第一とする気風もこの辺から生じたのかもしれない。布教力がそれほどない地方では、百戸の信者を二分して教会を倍加するところも出てきたし、看板だけの教会もあったし、さまざまな姿がそこにはあった。現在でも、「倍加教会」という悪評が立てられるのは仕方のないことであるが、しかし、倍加運動でできたすべての教会に内容がなかったというわけではない。その後、素晴らしい発展を見せた教会はいくらでもある。それは要するに、教会設立だけを目標として働いたのか、それとも人だすけ、心の成人をより大きな目標として働いたのかの違いから出てきたものである。

 この道は、心の成人の道であるけれども、心はじっとしていて成人するものではない。成人を促す具体的なふしが数多くあってこそ、初めて成人してゆくのである。倍加運動も成人のためのふしとして与えられたものであるが、それを自分のものとして受け取ったところに一定水準の成人があり、それ以上は、どこに各人が心を置いていたかで、さまざまな差が出たのであろう。

 倍加運動については、今日でも賛否両論がある。しかし、歴史の流れの中でこれを眺めると、やはりこれは一つの旬の動きであって、その持つ意義は大きい。ただ人間の常として、こうしたことから天理教の信仰者の目が、自分の心を掘り下げてゆくことより、外的がことに目が向けられ、活動的になり、派手になり、都会的になったということは言えるようである。同時に、実利的な色彩も加わってきた。

 こうした傾向は、すでに大正十三年頃から自覚され、増野氏はたびたび、活動が上滑りをし、浮ついていることに警告を発していた。氏はあくまで神一条を念願とし、心の道を目的とした人であるが、その心をつくるために、具体的な目標の中に生きて信仰をつかまねばならなかったという矛盾の中に、その心は次第に苦悩していった。倍加運動が成功し、全教が熱狂的になってゆくのに反比例して、天理教は何か大切なものを忘れているのではないだろうか、という深い疑問が生まれてきた。これは言い換えると、心にかかっていた消極論の杞憂(きゆう)の復活であった。このジレンマの中で、やがて氏は教理の行き詰まりを覚え、だんだんと暗く懐疑的になっていく。そして最後は、その解決のめどが付かず、現状に失望して「どうしたらいいか。それは考えることです。深く考えることです」「すべては時が解決します。待つことです。ただ待つことです」という沈痛な言葉を残して、昭和三年に出直した。

 四十年祭は、大正十四年までは松村吉太郎氏と増野道興氏によって進められ、倍加運動がその主眼であった。それがともかく外的には成功しつつ十四年に達したとき、天理教の局面はがらりと変わって、次の時代に入ってゆくことになった。

 

 

 

終わりにあたって

 以上、誠に不十分な記述であったが、四十年祭当時の信仰の状態とその変動の一面を描いてみた。四十年祭の全貌はさらに研究を要するが、いまだ評価を下し得ない面も多いので、一応この辺で筆を止めることにした。史料は、相当正確を期したつもりであるが、どの線をとるかについては、私の記述は少し主観的であったかもしれない。しかし、自分としては、一つの仮説を立てて書いたまでのことで、これを証明するには、五十年祭、さらには現在、また現在から十年後くらいまでの見通しを必要とするものと思う。

 最後に、参考文献のうち主要なものを次に掲げておく。

  

  中山正善 『年祭回顧録』

       『続年祭回顧録』

       『天理教伝道者に関する調査』

  増野道興 『増野鼓雪全集』(全二十四巻)

  松村吉太郎『道の八十年』

  上田理太郎『道友五十年』

       『増野鼓雪先生・その信仰と生涯』

  『本部員講話集』

  『道乃友』(大正五年  昭和八年)

  『みちのとも』(昭和九年  昭和十五年)

  各大教会史、分教会史

 

 

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