天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

【天理教的スピリチュアル】魂と霊がごっちゃになっている人に読んでもらいたい

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どうも、コムヨシです。

 

本日3月19日は、当教会の「春の霊祭(みたまさい)」でした。

霊祭は、3月と9月の彼岸の月に執り行われる祭儀で、教会にお祀りされている霊様の遺徳を称え、お慰めする儀式です。

天理教で葬式をした場合、ほとんど例外なく故人の霊は自宅と教会の祖霊舎にお祀りされます。

 

以前、葬儀を勤めさせていただいた際、喪主さんから次のようなことを質問されました。(喪主さん自身は全く信仰がない方です)

 

喪主「死んだら魂は生まれかわるんですよね?」

ボク「はい、そうです」

喪主「教会では霊様を拝んでますけど、魂は教会にはいないんですよね? 一体何を拝んでるんですか?」

ボク「魂は◯◯◯◯で、霊は◯◯◯◯だということです」

 

というわけで、今回は魂と霊の関係をコムヨシ的側面から見ていきます。

 

 

魂はその人を形成する本質

魂をwikipediaで検索すると、魂という言葉ではヒットせず「霊魂」というページにたどりつきます。

その中に、「霊魂という表現」という段落があったので、以下に抜粋してみたいと思います。

霊魂」という表現は、「霊」という言葉と「魂」という言葉が組み合わされている。「」(れい、たま)は、すぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様な意味を持っている[4]。 また、そこに何かいると五感を超越した感覚(第六感)で感じられるが、物質的な実体としては捉えられない現象や存在聖霊など)のことを指すこともある。

(こん、たましい)」の方は、精神を司る精気を指し、肉体を司る「魄」と対比されている[4][注釈 1]

よって「霊魂」という言葉は「霊」と「魂魄」両方を含む概念を指すために用いられている。ただし、通常は、個人の肉体および精神活動を司る人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している[4]。そして人間だけでなく、動物や植物、鉱物にまで拡大して用いられることがある[4]

wikipedia「霊魂」より抜粋して引用

 

ちょっと難しいですが、要するに魂は精神を司っているっていうことでしょう。

 

天理教的に魂の話しを進めて行く上で絶対外せないのが、「かしもの・かりもの」という教えです。

ボクたちが普段使っているこの体は、神様から期限付きでレンタルしているものなんです。

そう、借りてるんです。

神様からみると「かしている」、人間からみると「かりている」。

この関係性を「かしもの・かりもの」っていいます。

 

ここで一つ疑問がでてきます。

 

自分のこの体を借りているのは誰? ってことなんです。

 

そうです、その借り主こそが魂なんです。

 

ボクが面白いなって思うのは、この魂に記憶(もしくは記録)されているデータの内容によって、借りる体の質や内容が変わってくるっていうことなんです。

 

そのデータは何を元に記録されるのか。

 

それはズバリ、アナタの心づかい全てです。今この瞬間の何気ない心づかいも。

この蓄積されたデータはアナタの体のみならず、家庭環境や人間関係であったりアナタの人生全てに直結してきます。

 

だからこそボクは、この世は平等だなって思うんです。

たまたま運良く金持ちの家に生まれたとか、たまたま冷えきった家庭環境に生まれたとかっていうのは一切ないなくて、全ては自分の前世での心づかいの結果に基づいています。だから平等なんです。

 

ナスの種を蒔いてきゅうりの収穫など出来ないのと同じように、さんざん人に迷惑をかける人が、恵まれた環境に生まれてくる道理などあるはずがないのです。

 

魂とはその人の本質であり、その人を取り巻く環境を左右するデータベースのようなものだということがわかります。

 

 

霊=遺徳と考えればスッキリ

次に霊についてみてみましょう。

 

霊と言えば「みたま遷し」という葬儀の儀式があります。

故人の霊を霊代(みたましろ)という位牌のようなものに遷っていただく儀式で、葬儀の中で最も重要な儀式だと言われています。

 

霊代には霊がお鎮まりになっていて、それを自宅や教会のお社にお祀りするわけですね。これがつまり霊様と呼ばれ、礼拝の対象となっているものです。

 

冒頭で述べたように、春と秋に行われる霊祭は霊様の遺徳を称えることがメインの祭儀です。

遺徳とは書いて字のごとく、故人が生前遺された徳のことです。

簡単に言えば

「あの人の◯◯があればこそ、今のボクたちがあるんだよね」

っていうところの、◯◯の部分が遺徳になろうかと思います。

 

例えばボクが、教会の初代会長の生まれ変わりだったとします。

そして今世ボクは、前世の自分の遺徳を拝んでいます。

これは、霊は魂のように移動するものではなく、遺るものだということを示していると思います。

 

 

魂と霊の関係まとめ

冒頭の喪主さんとのやりとりの答えは、

 

ボク「魂は生まれかわるもので、霊はその魂が生前に遺した徳だということです」

となります。

 

今回の記事をまとめると

  • 魂は人間の本質
  • 体の貸し主が神様で、借り主が魂
  • 魂には心づかいが全て記録されている
  • その記録をもとに体や、家庭環境、人間関係が算出される
  • 霊はその人が生前遺した徳
  • 魂のように動くものではなく、遺るもの

という感じでしょうか。

少しは魂と霊の関係をご理解いただけましたでしょうか?

この考察はあくまでコムヨシ的なアプローチですので、必ずしも天理教はこうだ!というものではありませんが、手前味噌ですがいい線いってると思ってますww

 

ということで、来世は石油王に生まれるようにキレイな心づかいを心がけたいと思います!!

 

今日も一日陽気ぐらし!